知らんけど

楽天家気取りの考え事と日記

西岸地区、6日間  三日目

気付いたら実際に旅してから2か月以上も経ってしまっていた。セメスターの間は本当にやることが多くて忙しくて、こんなものを書いている暇は全然見つからない。なんならあの後また西岸に行ってクリスマスツリー見てきたし。できればセメスターが終わるまでに旅の記録は書き終えられるといいなあ、と思いながら、一番重いレポートを提出して解放された気分でまた書き始めている。

 

 

 

 

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爆音のアザーンで目が覚めた。

アザーンというのは、イスラムの一日5回の礼拝に際してその時間の区切りを知らせ、礼拝を呼び掛ける町内放送のようなものだ。そして当然ながら、その一回目はまあまあな早朝に流れる。アザーンの穏やかな声とゆったりとした抑揚は聞いていてなかなか心地良いものではあるのだけど、これはちょっとアウトプットがラウドすぎないか、と思ったところで、自分がモスクのすぐ近くのホステルに泊まっていたことを思い出した。

昨日の夜は街の端の方から聞こえる鳴りやまない銃声でなかなか眠れなかったし、ここの人たちの耳はたぶんデカい音に慣れてるんだろうな。

 

石造りの街とそれを囲む山肌が朝日に照らされて薄いオレンジ色になっている。綺麗だと思って外に出てみたけど、さすがにどの店も屋台もまだ開いてなかったので、部屋に戻って昨日買っておいた朝ごはんをベッドの上で食べた。美味しい。

 

ご飯を食べたら眠たくなったので、二度寝して、起きて、もう一度街へ出た。

 

 

いくつかの店がポツポツと開店準備を始めている。9時頃になっても街はまだ静かで、僕は昨日見れなかったモスクの方に向かった。

 

旧市街に入る直前で、小さなカフェに呼び止められた。カフェと言っても、コンクリート壁にあいた深い洞穴にパイプ椅子がいくつか並んでいるような感じ。二つ並んだバスボンベと簡易のコンロだけのキッチンでお父さんが準備をしていて、二人の小さい男の子が奥の椅子に座っていた。そのお父さんに coffee? と声をかけられたようだ。ちょうどコーヒーが欲しかったところだったので、つられてみることにした。

何が欲しい?と言われ、何があるのかもわからなかったけど、とりあえずカプチーノはあるだろうと思ってダブルを頼んだ。お父さんがガスコンロに火をつけてお湯を沸かし始める間、促されて椅子に座っていると、二人の兄弟が珍しそうにニヤニヤこっちを見ている。少し話をした。

どこから来たの?中国? — 日本だよ — 日本好き! — おお、ありがとう 俺もパレスチナ好き イスラエルは好き? — イスラエルは嫌い 銃ばっか バンバン! — そっか — 日本と中国は違う国? — そう、隣だけど違う国 日本は自然が綺麗だよ — ここも綺麗なところあるよ — そうだね、俺もここ好きだ

俺日本生まれ、と言って彼はニヤッとした。俺はパレスチナ生まれ、と返して、3人でちょっと笑った。話していたのが英語だったかアラビア語だったかは、もう忘れてしまった。たぶんアラビア語だったんだろうな。

そのうちに、お父さんが「できたよ」とコーヒーカップを渡してくれた。こんなガレージのような店なのにコーヒーはちゃんとした見た目をしていて、きめ細かい泡の上にはパウダーのようなものまでかかっている。猫舌なので注意深く冷まし、少し甘い匂いもするな、と思いながら口をつけてみた。 びっくりした。めちゃくちゃ美味しい。こんなに美味しいカフェモカは飲んだことがない。これで5シェケル(150円)なら、本気で毎朝買いに来たいくらいだ。カプチーノを頼んでいたことなんて、すっかりどうでもよくなってしまった。 Arabic coffeeと同じやり方でつくってなかったか?どうなってるんだ。

 

モスクに行くと言うと、兄弟の友達らしい男の子を呼んできて、彼がモスクまで案内すると言う。昨日行ってるから正直道はわかってたけど、せっかくなので案内してもらうことにした。こっちから頼むわけでもなく、道々で占領の様子を説明してくれる。昨日のガイドのおじさんの説明と被るところもあったけど、男の子の方がいい意味で慣れていない分詳細で、少し感情的に見える。なにより小学校低学年くらいの男の子が語る占領の”歴史”には、いろんなものが透けて見えてしまう。彼は少し英語を勉強しているらしい。

 

 モスクの中はシナゴーグ側よりはるかに開けていて、天井も高く、周囲の壁も頭上も全て黄緑に近い薄い青緑になっている。本当に息を呑むほど綺麗なのだけど、モスクの美しさを描写するのはとても体力を消費するので、これからは簡単に済ませることにしよう。何か美しいものに圧倒されているときは、実際に呼吸が薄くなってしまう。

 

モスクから出ると、男の子が今度は近くのガラス工芸工房に連れて行ってくれた。これぞ洞窟、というか洞穴のような作業場と、簡素な棚にぎっしりと並べられたガラス工芸品。天井にも所狭しと吊るされていて、かなり気をつけて歩かなければいけない。繊細な装飾の施されたガラスランプがとても綺麗だ。自分用にも欲しいしお土産にも買いたいけど、これを飛行機に積んで帰るのはちょっと怖い気もする。

 

彼に勧められて、アラブスイーツを少し買った。君の分も買おうか?と言ったけど、ちょっと恥ずかしそうに遠慮された。さっきまですごくグイグイする子だったのに。

 

兄弟だという、彼より小さい男の子と女の子を紹介してくれた。それぞれと握手をして、3人とはそこでバイバイ。彼に幾分か案内料を渡した気がするけど、忘れてしまった。

 

 

次の都市に向かう前に、中心街の方へもう一度足を運んでみた。とにかく暑い日だったので、2シェケル(約60円)で買ったデーツジュースを飲みながら。デーツジュースはチュロスと並んで、この町で発見した好物のひとつになった。それにしても、こんなに暑いんだからかき氷でもやったらいいのに、と思った。市場には果物が山のようにあるし、神戸の中華街で見たフルーツかき氷を教えてあげたら流行るかな。

 

大衆洋服屋の店先でワゴンセールをやっていた。考えてみれば当たり前なのだけど、ヒジャーブを被ったおばちゃん達もワゴンセールに群がるのだと、その光景がちょっとだけ新鮮に思えた。

 

道端で売られている鮮やかな緑とピンク色のひよこに驚く。日本でも昔は縁日なんかで売ってたって聞くけど、それもこんなに鮮やかで毒々しい色をしていたのだろうか。

その隣の屋台で売っていた小さなアイスクリームにもまた驚かされた。大きめのカプリコのような大きさで1シェケル(約30円)というから買ってみたのだが、なんというか、味がよくわからない。一言で言うと「驚くほどの無味」なのだけど、何も感じないというわけではなく、「無味」という確かな何かを感じる。不思議な感じ、初めての感覚だ、この先も別に出会わなくてもいい感覚だな。

 

 

ホステルで背の高い黒人の兄ちゃんにチャックアウトしてもらって、ベツレヘム行きのセルビスに乗り込んんだ。そういえばこの兄ちゃん初めて見たな。このホステル、普段フロントに誰もいないのに、接客してくれるスタッフが毎回変わる。よくわかんないな。

 

向かうこの旅3つ目の都市、ベツレヘムまでは、前回と同じく乗り合いバスセルビスでハイウェイを窓全開で走っていく。セルビスには僕の他に、親戚同士らしいヒジャーブの奥様方4人と、権威ありげなアラブ男性一人が乗っていた。

 

 

その、道中だった。

 

チェックポイント近くのハイウェイ上で、僕らの前を走っていた車を突然割り込んできたイスラエルの警察車が停止させた。複数の警官に運転席から引きずり出された若者は、拳銃を向けられながら手を挙げて道路にうつ伏せにさせられ、そのまま警察車に乗せられて連行されていった。若者の乗っていた車は警官の一人が運転して。この間、わずか2,3分。さっきまで僕らの前を走っていた彼の車は、おかしいところなど全く見えなかったのだ。

 

あっという間の一連の出来事を目の前で目撃して、セルビスの中では、乗客たちの怒りが渦巻いていた。女性たちはハイウェイ上で突然若者を逮捕するイスラエル警官の理不尽さを口々に罵り合い、60代ほどの男性は相当の怒気をはらんだ声で誰へともなく怒鳴り続けている。かなり激しく早口な口調なので彼らのアラビア語を聞き取ることはほとんどできなかったけど、その怒りの程は身に直接感じ取れた。本当に、荒れ狂う感情に殴られ、胸が物理的に痛くなってしまうほど。

 

彼らの怒鳴っている対象がこの出来事だけではないことが明らかにわかったのも、これまでにパレスチナの現状を学んでいたこともあるけど、彼らの様子からでも十二分に見て取れるものだった。彼らの怒りは、目の前の突然の出来事に対して突発的に湧いたものではない。実際には、こんな理不尽な出来事が、この地域では毎日起こっている。パレスチナ人が実際に抵抗できることはほとんどなく、イスラエル兵一人一人に明確な説明の必要もない生殺与奪の権が与えられている。パレスチナ人は、これに決して慣れることはない。慣れるということはその状況を受け入れるということであり、彼らは与えられた唯一の抵抗の手段として、自分たちが晒されている現状を受け入れることを拒否し続ける。その一つの形としての、腹の底から噴出するような怒りだった。

 

初めて目の前で見たな。

 

 

さて、ベツレヘムについて、まず探さなければいけないものがあった。実はこの西岸地区の旅でこの日だけ、ベツレヘムでの夜だけは、事前にあるホテルを予約していた。実際、ベツレヘムを訪れた目的の半分はこのホテルだと言ってもいい。

また近くのホテルのフロントで道を聞き、長いことカナダに住んでいたというタクシーの運ちゃんに乗せられて、Walled Off Hotelに着いた。

 

Walled Off Hotelは匿名芸術家バンクシーがプロデュースしたホテルで、「世界一眺めの悪いホテル」をテーマにしたそれは分離壁のまさに真横に建っている。客室の窓から外を眺めても、目の前に壁しか見えない、というわけだ。芸術家が経てたホテルなだけあって外観は嘘のようにレトロでシックで、正面では絵本の挿絵から出てきたようなホテルのドアマンが絵本の挿絵のような仕草で出迎えてくれる。なかなか楽しい。

 

中に入ると、ロビーの壁面全体を覆いつくすように、バンクシーの作品が所狭しと並んでいる。そのすべてがイスラエルの占領をテーマにしたもので、何を素材に何を風刺してその裏には何があるのか、一つ一つ考えてみたりする。ただこれ、パレスチナ問題に対する自分の知識量とバンクシーの知識量を把握していないと、読みがわけわからないことになるな、と思った。

 

フロントで出されたウェルカムドリンクが、めっちゃオシャレな見た目なのにしっかりアラブの味で面食らってしまった。手続きをしているときに、スタッフの一人が「どこから?」と尋ねてきたので日本だと答えると、「日本か…」と意味深な反応をされる。聞くと、「ホテル予約サイトのレビューで大抵ずば抜けた高評価をもらえるのに、日本人だけが低評価をつけやがる」のだそう。ほんとか?

 

まだチェックインの時間ではなかったので、荷物だけ預けてロビー併設のミュージアムとギャラリーを覗くことにした。分離壁を中心として、占領の詳細を数字や資料を用いて淡々と明らかにするミュージアム。展示の仕方で、バンクシーパレスチナ問題の発端をどこに捉えているのかがわかるのが少し面白い。工夫を凝らした数々の展示の中で、「イスラエル軍からの電話をとる」というものが特に印象的だった。文字通り突然、日常に絶望が訪れる様子が耳元で実際に体験できる。トラウマになるほどに、パレスチナ人を襲う恐怖がそのまま記憶に刻み込まれた。

 

ロビーでアメリカンとヘブロンで買っておいたアラブ菓子を食べながら、予約していた難民キャンプツアーの開始まで時間をつぶす。アラブ菓子が重すぎてちょっと後悔。

 

 

ツアーの参加者は僕の他に、ニューヨーカーのカップルとドイツ人青年。当時ちょうどトランプ大統領のメキシコ国境壁建設が話題になり始めていたころで、ドイツもアメリカも「壁」には因縁があるね、とツアーガイドと一緒にみんなで笑った。日本にはないね、と言われ、まだね、と返しておいた。反トランプだけどメキシコ国境壁建設には賛成というニューヨーカーたちの意見は興味深かった。

 

難民キャンプまで、壁伝いを歩きながらガイドがいろんな話をしてくれる。何故ガザではハマスが支持されるのか、水の使用量は占領によって厳しく制限されていて、夏にはイスラエル人がプールに水を張るためにパレスチナが余計に水不足に見舞われる話、トランプが「難民」の定義を捻じ曲げて「これで難民問題は解決した」と言い放ったこと、ゲートにペイントするパレスチナ人にイスラエル兵が上から汚水を振りかける話etc…。

 

壁全体に有名アーティストや地元住民、観光客による落書きが溢れていて、それぞれに独特の視点とセンスがあり、なんとバンクシーの作品でさえどこかの誰かに別の落書きで上書きされている。この巨大なキャンバスが何のために、誰のためにキャンバスとなっているのかが、皆に共有されていることがよくわかる。

 

難民キャンプには、大きなカギをモチーフにした門から入る。鍵(アラビア語でミフターフ)は国内外のパレスチナ難民にとって重要なキーワードで、「故郷を追われたとき、この状況は一時的なものだと信じて家の鍵を一緒に持って行った」記憶から、今のこのキャンプが本当の家ではないことを次の世代に伝える役割も果たしている。門の近くの壁に大きく刻まれていた ”ナクバ(パレスチナ難民発生の原因となった戦争)からの年数のカウント" が、今の状況が何世代もの期間に渡って続いてきたということを、唐突に気づかせてきた。

 

キャンプの応接担当ガイドの英語がかなり早口で、正直半分ほどしか聞き取れなかったのだけど、それでも興味深い話をキャンプを歩き回りながらたくさん説明してくれた。

 

このキャンプでは、すぐ横に面する壁の上からイスラエル兵が発砲してくることがよくある。ひどいときには、煙幕弾を放って視界を効かなくしたうえでキャンプに向かって散乱銃を打ち込むこともあったらしい。ある日、アメリカ人の観光客団体がツアーで見学に来ていた時に、イスラエル兵がそれに気づかずキャンプへの銃撃を始めた。ツアーガイドは安全を確保したうえで、何も言わず観光客にただその様子を見守らせた。観光客は、明らかに来る前とは何かが彼らの中で変わった様子でツアーを終えたらしい。

 

 

ツアーを終え、ホテルにチェックインした。「本棚に見せかけた隠し扉」を初体験し、その扉のロック解除の際のしょーもないユーモアに大ウケする。バンクシーもしょーもない下ネタ好きなのかな。フルーツティーの香りの漂う、映画のように雰囲気のある部屋に入り、ベッドの上のマッチ箱のような素敵な石鹸とバンクシーからの手紙に大はしゃぎした。ひとりだけど。

 

晩御飯の時間なので、フロントで近くのレストランを聞くと、パンフレットに地図まで描いて懇切丁寧に教えてくれた。忙しいだろうにありがたい。紹介してくれたうちで一番近い、評判の良いアラブ料理レストランに行ってみることにした。

 

そのレストランは大衆食堂のような外観をしながら、ちょっと西岸地区の他の都市では見ないような高級感に満ちた雰囲気をしている。実際に他のレストランよりも小量な料理に高価な値段がついていて、味もそれなりに見合ったものになっている。雰囲気にのまれ、ちょっと調子に乗ってグラスのビールを頼んだら、しばらく飲酒していなかったせいか半分でフラフラの真っ赤っ赤になってしまった。

店にスーツのおじさん数人と、めちゃくちゃ綺麗な色のセクシーなドレスに身を包んだめちゃくちゃ綺麗なお姉さんたちが入ってきて、何やら祝いの席っぽいものが始まった。そのドレスが彼女たちの一張羅であることは間違いないけれど、それでもなかなかの上流階級(言い回しが古い)であることはうかがえる。あとで店主に聞くと、やはり結婚披露宴のようなものだということだった。「おめでとうございますって伝えといて」って言えばよかったかな。そんなキザなことはできないか。

 

酔い冷ましに少しぶらつく。

ここベツレヘムは西岸地区の中でも特色の強い観光都市で、人々も街もいろんな意味で冷めていて、歩いていても他の都市ほど好奇の目で見られない。観光客向けに物価も比較的高め。

 

小さなジェラート屋に入り、兄弟らしい店主の二人のおじいさんとちょっと話をした。エルサレム出身で、自分のアイデンティティイスラエルでもパレスチナでもなくエルサレムだと言う。実に面白い。西岸地区に店を出したのは単純に物価が安く、生活しやすいからだそうだ。

 

 

ホテルに戻ると、ロビーの一角で地元のギターとクラリネット奏者が小さなライブをやっていた。良い音色。まだ寝るような時間でもなかったので、ラウンジのバーでアラクをもらって聴いていくことにした。アラクはアラブのポピュラーなお酒で、ミントのような爽やかで強烈な風味がする。シーシャ(水煙草)ととてもよく合うのを、日本で教授から教えてもらっていた。このホテルにシーシャは無かったけど。

ちょっとキツイな、と思ってバーテンダーにラベルを確認してもらうと、地元の高級なアラクで度数は65らしい。皆さん大体ロックか水割りで飲まれますよ、とニッコリ言われたので、意地になってストレートで最後まで飲んでしまった。バカだなあ。

ふらっと入ってきた抜群の雰囲気のアラブ人女性に、少しの間目を奪われた。たぶん地元民なんだと思うけど、ここの女性は彫りが深く、顔立ちが整っている上にメイクもかなり強気なので、その上ヒジャーブをつけていない西洋風の格好をしているというだけで、地上最強かと思うほどかっこいい人が時々いる。

 

 

コーヒーを飲みながら廊下で一日の記録をつけていると、通りがかりの酔っぱらいのおじさんに指をさされて「夕方の5時にも君を見たぞ!」と言われた。「また会ったね、ハッハッハ!」と返しておいた。知らねえよ。

 

 

 

 

 

 

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もうすでに、この記事を書き始めてから2か月くらい経ってしまった。ヘブライ大学のセメスターも終わり、今はNGOインターンをしていて、結局毎日仕事もやることもたくさんある。西岸の旅編はまだこれで半分ほどだけど、残りは帰国してから書くことにしよう。それまで、いろんな感動を覚えていられればいいけど。