知らんけど

楽天家気取りの考え事と日記

西岸地区、6日間  五日目   あとエルサレムでの入院のこととか

 

 

8時くらいに目が覚めて、そのまま外に出た。こんなに大きな市場でも、朝8時台はまだ全体がやっとこさ起き出してきたような空気で、開いてる店もそれほど多くない。あまり朝の早い街ではないみたいだ。

市場をぐるっと歩いて、昨日とは別の店であのコロッケみたいなのとミートピザを買い、町の中心のベンチで食べながら周りを見渡す。市場の朝は遅いけど、ベンチにはすでにたくさんの人が座っていて、何をするでもなくそれぞれの方向を向いている。

 

軽く朝食は済ませたつもりで、昨日の夜に決めていたあのおしゃカフェにもう一度足を運ぶ。昨日は夜も深かったのでIce Spanish Cappuccinoをテイクアウトし、そのクオリティにぶちのめされたのだけど、今日は朝なので思いっきり甘いのを。ピーチフレーバーのミルクシェイク。さすがに大味だろうと思ったのに、そこかしこに新鮮なフルーツが山盛りになっているナブルスの街はミルクシェイクのフレーバーまで本当に瑞々しくて、衝撃を受けるほどに、美味しすぎる。スターバックスどころじゃない。加えて、表参道にあったとしてもオシャレな店舗。そしてこういう店に、ちゃんと地元住民が多く通っていることも、このナブルスの街の特徴なんだろう。

 

一度ホテルへ戻り、近くのモスクを調べる。ヒットしたモスクの位置をフロントマンに聞いて外に出たけど、なかなか見つけられないし、着いたと思ってもこれは…?という感じでしっくりこなかったので、市場でミックスジュースを買ってもう一度ホテルに戻った。ミックスジュースはとても美味しい。大阪のみっくちゅじゅーちゅを思い出すけど、それより格段に美味しい。誘惑が多くて、外に出るたびに何か食べ物を買ってしまってるな。

 

また外に出て、目でモスクを探しながら市場をふらふらしていると、道端で朝ご飯を食べてるおじいさん二人組に声をかけられた。二人ともなんだか仙人めいた風貌をしていて、地面に直接焚いた火の上に鍋を煮て、そこにパンをつけて食べている。なんかちょっとくれるらしい、ので、喜んでいただく。鍋の中は、ホモス(ヒヨコ豆のペースト)かと思ったら違って、何かわからないけど肉々しいものをスパイシーな味付けで煮込んでいる。こっちでは久しぶりのビーフっぽい味がして、めっちゃ美味い!ありがとう!さよなら!とアラビア語で礼を言って別れた。

少し歩いたところに、名探偵コナンのグッズショップを見つけた。こっちで初めて見た、ガッツリ日本産文化の輸入品。唐突だな。ちゃんと全部アラビア語になっていた。

 

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今度はちゃんとgoogle mapでモスクの位置をマークしてから、ホテルをチェックアウトした。wifiの外に出るとインターネットの使えないこういう旅では、目的地の方向だけ定めたらあとは人に訊いて訊いて辿り着く、の連続になる。もちろん毎回すぐにうまくいくわけではなく、今回もハンバリモスクを目指していたらアルスモスクへ辿り着いてしまった。ここは大きな単一のドーム屋根のモスクで、単色のステンドガラスが単純な組み合わせではめ込まれた窓が一つの、シンプルなモスク。

引き返してハンバリモスクを探していたけど見つからなくて、小さな路地を覗いていたら、どうやら人の家の敷地に入ってしまっていたらしい。中から出てきたお兄さんに、「ごめんなさい、ハンバリモスクへ行きたくて」と言うと、仏のような笑顔で案内してくれた。あまり覚えてないけど、この辺は頑張ってアラビア語で話していたんだと思う。

アーケードになってる市場をとにかくまっすぐ歩けと言われて、その通りまっすぐまっすぐ歩き、さすがに不安になったところでそれっぽい道を左に曲がると、そこがハンバルモスクだった。さっきの簡素なアルスモスクとは違い、ハンバルモスクはとにかくancientな風貌がすごい。絵本で見た錬金術師たちの仕事場のような細かな石壁の空間の奥には、図書館のようなスペースもあって、仕事の合間らしいおじさんが寝転んだ姿勢で読みふけっている。

モスクを出て、隣の石鹸ファクトリーを少し覗き、デーツジュースを買って今度はヤコブの壁へ向かう。ナブルスの街で有名なものを二つ挙げるとしたら、名産の石鹸と市場のクナーフェだろうか。今回はクナーフェ屋に行けなかったのが心底残念なので、次の機会には真っ先に行こうと心に決める。

 

歩いていると、やっぱりこのナブルスの街は、この市場は、観光客の「求める」パレスチナではないのだろうなあと思う。この街はこの街に生きる人々で成り立っていて、土地と人と生活の伝統は余所者の目に映るべくもなく、文化や習慣や空間はその外に向かって繕われていない感じがする。

 

市場から少し離れたところで、やたらテンションの高い若者たちにテンション高めに捕まってしまった。どうやら地元の悪ガキどものようで、バリバリのパレスチナ方言に全く意思疎通を図れないまま、ずっと喋りかけられ、腕を組まれ、されるがままになっていると、なぜかそのまま学校に連れてこられた。校庭にちらっと見えたバスケットゴールに、バスケできるかな?とちょっと期待する。敷地内に引きずられて入ってくる僕を見てはしゃぐ児童たち。

悪ガキたちは校庭を素通りして職員室まで僕を連れてきた。どうやらというか、完全に悪ノリだったようで、悪ガキどもは先生にどやされ、そのあと先生は丁寧な英語で僕に頭を下げた。楽しかったからいいんですよと返して、ヤコブの壁に行きたいと言うとこれまた丁寧に説明してくれる。思わぬ交流にお礼を言い、一人で「下校」した。

と思ったら、校門を出るとすぐにまた仲間を連れたさっきの悪ガキどもに絡まれ、振り払うのに大層苦労してタクシーに乗り込んだ。昨晩のモスクで会ったおじさんと並んで、この街で受けた最も熱烈な歓迎のひとつとしておこうか。

 

10シェケル(約300円)払ってタクシーを降り、周辺をウロウロ。門も全部閉まってるしどこから入るんだろうと迷っていると、近くの店の店主に声をかけられ、どうやら14時までお昼休憩を取っているらしいことを教えてもらった。ついでにタバコどうだいと言われたので、丁重にお断りしてお礼を言い、仕方ないので近くのモスクへ行ってみることにした。

道中で、このあたりにしてはかなり大きな学校を見つける。表札には「United Nations Relief and Works Agency for Palestine Refugees in the Near East (国連パレスチナ難民救済事業機関)」と「Balata Camp」の文字。後で立ち寄ってみようとマークして、先にモスクの方へ向かった。

 

モスクの階段に小さい男の子が一人で座っていて、案内役らしい老人のところまで手を引いてくれる。男の子は僕の眼鏡ケースが面白かったようでしばらく遊んでいたけど、老人がクロスを丁寧に畳んで返してくれた。

モスクの中は三層くらいの構造になっていて、一階の礼拝所から階段を上がり、女性と老人用だという二階部分まで案内してくれた。単一のドームに緑色のステンドグラスの大きな窓が一つだけあるのだけど、そこを通る光がドーム全体を薄緑色に満たしていて、なんだかすごい空間だ。握手をした祭司が、それぞれの礼拝の仕方なんかを説明してくれる。アラビア語を混ぜた英語で話してくれるのだけど、「女性」を表現するときに手で胸に山をつくってからヒジャーブを被るしぐさをしたりするのがわかりやすいけど可笑しかった。

一階に降りてまた握手し、サヨナラ。まだ時間があるのでカフェでもと思ってしばらく歩いたけど、何も見つからない。どうもこのあたりはさっきの市場と比べて、もちろん規模が違うのだけどそれだけとは言えない活気の差がある気がする。それでも、路地で出会う子供たちには毎回きっちり絡まれてしまう。

 

そうやって、さっきの学校の前でまた子供たちに絡まれていると、彼らより少しだけ年長らしい英語のできるメガネの少年に懇意にしてもらい、すぐそこにあるというヤッファカルチャーセンターで話を聞かせてもらえるらしい、ということになった。中に入ると、施設長らしい女性が「今観光客を見送ってスキップしようかというところだったのに、またすぐあなたが来た」と冗談を言いながら、奥の部屋に通してくれた。学校の表札にあった通り、僕は知らぬ間にBalata Campに入っていたらしい。

ここからは、その施設長が話してくれたこと。

 

このキャンプにはもともとヤッファ(現在はイスラエル、テルアビブの一地区とされている土地)にいた人が多いから、ヤッファセンターと名付けた。施設の役割は、キャンプの子供や女性、特に子供の発達をサポートするプログラムの運営。女性のサポートは、彼女たちの夫や男兄弟が亡くなったり逮捕されたりするため、彼女たちが家庭を支えなければならない立場にあることが多いから。子供たちへのプログラムは、主に発達を支える文化的資本に触れさせること。キャンプでは家々の間が狭すぎるために、子供たちはのびのび遊ぶことができず、騒音問題になるためテレビで娯楽番組を見ることもできない。

難民が発生したとき、国連が受け入れ地としてこの土地を借り上げ、現在のBalata Campとなった。難民化から最初の4年間はCampでもテント生活。その後はユニットが建っていったが、依然として環境は劣悪なまま。

環境が悪いのにもかかわらず、なぜCampでは一家庭平均5人以上も子を持つのか?  ― この地にパレスチナ人の人口を増やすため。この地を「ユダヤ人の多数派」にしないため。"Existence is a protest."

第一次インティファーダはこのCampから始まった。だが結果として、何も成し得なかった。ただ多くの人が殺され、逮捕され、その多くが今も監獄に拘束されたままでいる。もう20年以上も。

私(施設長)は2004年に結婚したけど、2003年には家族が殺されている(2000年~2006年に第二次インティファーダ)。

全ての家庭が、すべての人が、それぞれのストーリーを抱えている。

現在、毎週月曜日にはCampの向かいのヤコブの壁にユダヤ人が祈りに来る。Campには事前に、「絶対に外に出てこないよう」通達される。通達期間中、外にいるのが見つかれば即射撃。先月は二人の若者が果物の荷下ろし中に射殺され、先々週は一人が打たれて負傷、先週は15人もが銃撃に遭った。また、毎晩のようにイスラエル兵が来て外出禁止令を宣言し、外で見つかれば射撃に遭う。イスラエル兵だけではなく大型犬を使ったパトロールや捜索も行うため、Campの人々は家の中で一ヶ所に集まり、光や音が外に漏れないように息を潜めて過ごすこととなる。このような生活で、大人は慣れることもあるが、子供には重大な精神疾患をもたらすことも多い。

ドイツ(おそらく政府)からのCampへの支援が6年契約で、それが来年切れる。私たちはその後も何とかしてプロジェクトを継続し、Campの女性たちを支えていかなければならない。

 

子供たちの文化活動を見ていくかと誘われた部屋では既に子供たちは解散していた。その隣の部屋では黒い眼の女性が僕を見て、「同じね、私もヤーバーン(日本)」と茶化された。なんやねん。

センターの外壁には、このCampを訪れたアーティストやボランティアが子供たちと一緒に描いた壁画がずーっと並んでいる。

そして、センターから通りを挟んで向かいが、施設長の旦那さんの店らしい。プッシュ商品のパレスチナ刺繡は、無地のカバンを仕入れてCampの女性たちがそれに刺繡を施し、収入源にしているらしい。アラブコーヒーを頂きながらいろいろと説明を受け、結局ナブルスの石鹸と旅のお供にクッキーを購入した。ヘブロン産という陶器のお皿が、鮮やかで毒々しくて実に綺麗だった。

 

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アラブのsoap factoryというと背丈ほど積み上げられた石鹸の山のイメージだけど、個包装はこんな感じ

 

施設長たちとお別れして、ようやくヤコブの壁に向かう。この時点で13時50分くらい、開錠まで10分程だったので、アメリカから来たらしいおばさんたちと一緒に門の前で待つ。このおばさんたちも、ユダヤ系なんだろうな。

司祭らしき人に続いて中に入った教会(?)はとにかく縦に大きいつくりで、水平方向の広さは外観でなんとなくわかってはいたものの、この高さが全くの吹き抜けとは思わなかった。中央には偉い人が座る背もたれがめっちゃ長いタイプの椅子が向かい合って配置され、内壁の高い位置にはこれでもかと宗教画が貼り付けられている。ほとんどそれだけの比較的がらんとした空間に、天井から吊るされた、数々のガラス装飾がかなり大きな効果を持って煌びやかさを演出している。

ただ、そんな空間演出もすべて不要だったのではと思うような、少し奥まった階段を降りたところの、小さな空間に張り詰めた例の名状しがたい緊張感。ここがまさしくホンモノなのだと思わされる。

それでも振り返って外に出ようとした門の上の窓のステンドグラスの、なんか、マッ…キー……?で塗った…?と思ってしまうような感じとか、拍子抜けしてしまう。もちろん僕の審美眼が未熟である可能性の方が大きいのだけれども。

教会の周りの庭になっている敷地には、白黒の鶏とガチョウが放し飼いでたくさん。一通り一人で遊んでから、通りへ出た。

 

次の街へ行くため、タクシーを捕まえて、オールジェスチャーでさっき見たバスステーションまで運んでもらう。バスステーションでセルビスの運転手たちにジェリコに行きたいと声をかけるも、どうも要領を得ない。運転手たちがみんな英語が話せないようで、こういう時はなんとなくバカにされているような気分にもなってしまう。周りの人もあまり助けてくれるような気配がなく、ああこの街は毎日たくさんの観光客に慣れているようなところではなかった、と改めて認識した。

とはいえ何とかしなきゃいけないので、先に英語が話せる人を探した方が早いということに気付いて探し回り、結局親切な人たちにこの街の反対側にあるもう一つのステーションまで行く必要があることを教えてもらった。タクシーにその目的地まで伝えてもらい、心からの感謝を述べて送り出された。

このタクシーの運ちゃんもこれまた笑顔が穏やかな人で、ジェリコまでタクシーで行かれたらどうしよう、という不安も杞憂に、もう一つのバスステーションまですぐに連れて行ってくれた。

 

これでやっと、とジェリコ行きのセルビスに乗り込み、運行人数(6人)が揃うまで待っていてもなかなか人が来ない。待っているうちに、セルビスの中に珍しいアジア人を見つけたおじさんが片言の英語で話しかけてきた。

日本ってどこにあるんだっけ?小さいのか、中国とかインドとの位置関係は?お金持ちの国だったよな? 俺は日本は好きだがパレスチナは好きじゃない、海がないからな 海はイスラエルのものなんだ (手に持っていた袋を見せて)この靴は妹に買ったんだ、いいだろ 君はsingle?彼女はいるの?日本と離れて寂しくないのか?(僕はここでyesと言ったんだろうか) 日本では結婚するのにお金いる?アラブではリングもそうだけど、結婚するために女の子(の家族)に1万ドル払わなきゃならないんだよ (道行く女性を指差して)一万ドル!!(なんてこと言うんだと思ったけど、これは笑ってしまった)

しばらくしてこっそりと、「この街から直接ジェリコになんて誰も行かないから、このまま待ってたら4時間はかかるよ ラマッラーを経由した方が絶対に良い」と教えてくれた。それなら30分も話し込む前に教えてくれよ!と思ったけど、おじさんの珍しい話し相手になったのだと思って、感謝してラマッラー行きのセルビスに乗り換えた。

そうしたら僕のジェリコ行きまで伝えてくれたようで、ラマッラーのステーションでは運転手たちがキャッチボールのように僕をジェリコ行きに乗せてくれた。やっぱりおじさんには感謝しないといけなかった。

 

 ジェリコはこれまでの都市の中でも一番ラフな砂漠地帯の中にある。この時はもう日も落ちかけていて、窓を開け放した夜の砂漠のドライブはなかなかドキドキする魅惑的なものだった。

 

ジェリコの都市部が見えてきて、ナブルスの時とはまた違った意味で、驚いた。と同時に、この光景はめちゃくちゃワクワクする。まるでテーマパークの中みたいだと、中学の遠足でもれなくUSJを体験する大阪府民の僕は思ってしまった。

街の真ん中に大きなサークルがあって、そこから放射状に、ネオンに彩られた繁華街が四方に延びている。外側の方は民家になっているようで、中心付近には大きなモスクが二つ。あっちの方に観覧車が見えると思ったら、なんと遊園地のようなものまで見つけてしまった。まるでサーカスのように、砂漠の中に一夜だけ現れた移動式の街みたいだ。とてもとても古い都市なのにそう感じてしまうのは、それらすべてが荒涼とした砂漠の土地の上に直接建っているからだろう。とても好きな雰囲気。

 

ナブルスとは違い、セルビスから降りて3歩歩くと通りがかりのおじさんが「やあ兄さん!なんか迷ってる?」と声をかけてくれる驚きのホスピタリティ。でもそこで教えてもらったホステルの場所は結局見つけられず、タクシーに言われるまま最終的に連れていかれたのは一泊250シェケル(約7500円)のいいホテルだった。またもや二人部屋。フロントまで来ていたので仕方なくチェックインしたけど、こういう時に断って帰れる強さがまだ必要だな。

 

ナブルスでかいた汗にジェリコの砂がはりついて気持ち悪かったので、一度シャワーを浴びてから街へ出た。

 

中心部は全体が夜の街なのかと思うくらい賑やかで、なおかつみんなめちゃくちゃ声をかけてくる。歴史的観光地が周縁部にあるから単純に繁華街への観光客が珍しいのか、三度見くらいされることもある。

ケバブ屋の行列に加わり、前に並んでいたお姉さんと同じものを、と注文すると、小ぶりのハンバーグのようなもの(中東で言うところのケバブ)とフレッシュトマトが入っていて、当時の僕は少し新鮮に味わった。

はずれの方のちょっとしたモールまでしばらく歩くと、とてもスタイリッシュな感じのジェラート屋が入っているのを見つけた。店員のお姉さんがとても綺麗だったのと、フレーバーにPalestineと書いてあるものがあったことが、なんとなく印象に残っている。あれは何の味だったんだろうか。

戻る途中のカラフルなジューススタンドで怖気づいてシンプルにコーヒーを頼んでしまったけど、出てきたトルキッシュコーヒーにすらその時の僕はまだ適応できていなくて、非常に苦戦しながら飲み切ることになった。

 

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砂漠の街の大きな標識

 

中心部の二つのモスクのうち、一つは門が閉まっていたので、もう一つのモスクを覗いてみる。門は開いていたけどこちらも今日の礼拝はもう終わってしまっていたようで、ただ敷地内でサッカーをしている8人くらいの少年たちがいて、ワーワー言いながら僕に手招きしている。どうやら混じれということらしい。バスケやったらボコボコにしたるのにな~と本当に大人げないことを思いながら(パレスチナではサッカーがとても人気)、するすると招き入れられてしまった。

サッカーといっても実際は2チームに分かれてボールを取り合うようなゲームで、「名前は!?」と訊かれて自己紹介を大声で叫び返す、みたいなやり取りを通算10回くらい挟みながら、そのあとちょっと鬼ごっこもしてサヨナラした。

別れ際、子供たちは僕に向かってアイラブユーの指ハートを突き出していた。ナウいね。

 

ホテルに戻る途中でジューススタンドに立ち寄り、バナナとザクロのミックスジュースとペットボトルの水を買う。

 

ホテルに着くころに降り出した雨はあっという間に豪雨になり、窓から見ているうちに大きな雷鳴まで響き始めた。初めて来たジェリコで砂漠のストームが見られるとは、テンション上がるね。

 

 

 

 

 

 

 

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右の肺が半分ほどになっていると言われて、手術のために入院する羽目になった。

なんのことはない、高校の時から引きずっている気胸がまた破裂していたことが分かっただけの話だ。今は手術も終わっているし、右脇に刺さった最後の管もついさっき抜けて、あとは様子を見て退院を待つだけの身になっている。

そう大したことでもない疾患で1週間以上の入院を何度も繰り返していることがなんだか情けなくなってしまうけど、今回はそのおかげで久々にゆっくり本を読めているし、西岸紀行の続きに手をつけることができたのだとも思う。

 

ただ、在イスラエル / パレスチナの日本人コミュニティの会合で僕の卒業研究の内容をお話させてもらう予定と入院スケジュールが完全に被ってしまい、会を延期させてしまったことは本当に申し訳なかった。僕の二倍も三倍も生きている彼の地の先人たちや教授たち、国際協力機構のお偉いさん方数十人を前にして、何者でもないこの若造が自分の関心を話すだけの場を、僕自身の都合で延期してもらうなんて、本当はどう考えてもあり得ないのだけど、入院が決まったことを話したときの幹部の方々の返答の、なんと優しく暖かかったことか。それまで話題にも挙がっていなかった「会を延期させた方が良いその他の理由」を山ほど見つけてきては、「今はとにかく身体を気遣うことが仕事」だからと、僕に謝罪させる隙も与えない。

自分もああなりたいものだと、心から思う。僕の中の「大人」の指標に、「相手を恐縮させずにいたわる言葉を知っていること」が新たに一つ加わった。

 

肺のことに話を戻すと、再発ということは前にも手術しているわけで、前回入院したのが東エルサレムのHadassah Hospital。留学中のことだった。それもちょうど一年前、前回も今回も2月15日に診断を受けている。バレンタインチョコがもらえないとショックで肺に穴が開くだなんて下らないことは言わないけれど、一年を経て全く同じ日に同じ目に遭うとは、ちょっとびっくりした。

実際は一年前の手術後からずっと断続的に違和感はあって、今回は本当のところいつ発症したのかなんてわからないのだけど。この時節に新型コロナでもないのに呼吸器外科の手を煩わせるなんて、と放っておいたらこのざまである。

 

 

留学中にポツポツとつけていた日記がある。

 

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最初、すごく古くなって文字の消えかかった辞書とかに日記書いてるのシブくない?などとわけのわからない恰好つけたことを考えて古本屋を探して歩いたりもしたのだけど、結局そんなものは見つからず、市街地の文房具屋で買ったごく普通の可愛らしいノート。

 

留学生活もかなり後半の方になってから急に思い立って始めたので、前半期のことに関してはごく断片的で印象的なシーンしか記録されていない。それでも、特に2020年の2月から3月末の帰国まで、パレスチナの街や在エルサレムのアジア人男性としての自分に様々な次元で降り掛かった新型コロナの影響なんかについてちゃんと書き残されていて、やっぱり書いていてよかったと思ったりもする。

 

その日記の中に、エルサレムで入院し、手術した経験のこともちゃんと書かれていた。当時から「初海外のエルサレムで肺が破れて手術なんて良い土産話ができてラッキー」程度にしか考えていなかったんだろうと思っていたら、確かにそうなのだけど、それ以外にもいろいろ悩んで考えていたこと、驚いたり感動したりしていた跡が残っていて、一年ぶりに病室で懐かしく読み返していた。

 

2/15 東京海上日動に電話をして予約を取ってもらった病院に行ったが、すでにコロナ=アジアのイメージができていた頃で、「予約取れ」一点張りの受付と予約の有無を巡って怒鳴り合いの末に診察してもらう。即急患に通され、どこからか悲鳴も聞こえるフロアで二人の陽気なお兄さんとお話しした後、診断を受ける。"Pneumothorax(気胸) came back"-"Really"

2/16 病院食が毎回ジャンキーで毎回笑ってしまう。看護師さんは皆良くしてくれて、一日でほとんどの人と話をした。

2/17 スティーブ・ジョブズに似ているという理由だけで信用することに決めたドクターからCT結果の説明を受け、三日後に手術を受けることを決定する。ワクワクする。

2/18 同室の見舞いに来たおじさんにまっすぐ目を見て「コロナ」と言われたことが、(当時)初めて新型コロナで大きなダメージを受けた経験になる。消灯後に研修医らしいアフリカ系の青年がこっそり訪ねてきて、「どうして日本で治療を受けないのか」と尋ねられる。「この病院を信用している」と返すと、「イスラエルの医療はすべて素晴らしいわけではないが、ここに来られたのは良かったな」と。少し話し込んでから帰って行った。

2/19 翌日の手術のための同意書などにサインをする。ドクターの説明も、所々ユーモアに笑ったりもしながらほとんど理解できた。念のため家族にも同意書をスキャンして送ったら、「英語が読めないからいい」と。心配をある程度諦めたらしい。

2/20 リンゴを齧りながら手術を待つ。(エルサレムの友人)が見舞いに来て、Final Fantasyの高度な政治性について話してくれた。とても面白い。手術前にユダヤ正統派のお兄さんが訪ねてきて、クラリネットに似た笛で一曲演奏してくれた。そういう活動をしているらしい。やっと呼ばれて、ニコニコ顔で手術台に向かう。

2/21 寝起きからキッツくて、痛みで首を動かすこともできない。一日寝たきりだったが、夜にまた(昨日の友人)が来てくれた。

2/22 朝から"Today no bed"と言われ、鬼かと思ったけど座ってたらマシになってきた。頑張ってたら看護師のアンマールさんに褒められる。上司が来てくれて、たくさん話をした。女子高生たちとの交流、ラクダのミルクを飲んだ日本人が全滅した話、ICRCの働き方。入院初日の点滴痕をそのままにしていたらドクターに「めっちゃ古っ」と言われて写真を撮られた。

2/23 脇腹のチューブをずるずるッと引き抜くのが大変気持ち悪かった。この日に退院することになり、ドクターや看護師さんたちに感謝を伝える。ホステルに帰ると、置きっ放しだった荷物は知らない間に整理されていて、スタッフが皆で「家族だと思って頼っていいから」と心配してくれていた。

 

このあと、退院後の地獄のような痛みの日々や、厚意で雇ってもらったインターンシップになかなか復帰できない悔しさなどが綴られていく。読み返していると、退院した日にホステルのスタッフから家族のように迎えられたときの、初めて人のやさしさに触れた鬼の子みたいな気持ちがよみがえってきた。このホステルにはロックダウンで滞在できなくなるギリギリまでお世話になり、コロナ禍の後にはお互いを訪れ再会することをマネージャーと約束しあっている。

 

 

一昨日、BTScoldplayの『fix you』をカバーした動画をcoldplayの公式YouTube Channelがシェアしているのを見つけた。そういえば1年前、それまでなんとなく聞き流していた『fix you』のサウンドに泣き、リリックに泣き、繰り返し聴き込むようになったのも、退院後になかなか仕事に戻れず悶々としていた時だった。それ以降、この曲とcoldplayには何度も救われている。そして、小学生の時のKARA以来、10年ぶりに現代のK-POPときちんと出会い直したのも、この留学中のことだった。アメリカ人の友人と一緒に、BLACKPINKのパフォーマンスに度肝を抜かれた。いま一年を経て、僕が再び病院に振り戻されているときにBTSが『fix you』をカバーしたということに、勝手に不思議な感慨を抱いてしまっている。

思えば、いまYouTubeで唯一楽しみに見ているkemioにハマったのも、エルサレムの病院で痛みに耐えていた頃だった。異国の地で色々な経験をくぐり抜けながら出会っていった文化的嗜好が、帰国して一年経とうとしている今に至るまで僕の相当の部分を構成しているというのは、それだけ良い出会いだったのか、僕が進歩していないのか…。