知らんけど

楽天家気取りの考え事と日記

偽善と呼ばれるものについて

大学でパレスチナ問題を勉強していて、イスラエルに留学することになってるんです、と言うと、大抵、日常に馴染みのない武力衝突や遠く離れたアラブ世界に興味を持って、色々と尋ねてきてくれる。

「どうしてそれに興味を持ったの?」「紛争とかって今どんな感じなの?」「あの対立は終わる見込みあるの?」…

 

あるタイミングで、「で、その研究が終わったらどうするの?」と聞かれることがある。

NGOとかに所属して、解決のために活動していきたいと思っています。

その答えで、反応がそれまでと少し変わる。ちょっと驚いた顔をする人や、反対に軽く眉をひそめる人も。それまで前提にしていたことが違った、という反応だ。

 

 

幼稚園から始まる教育課程の中で、「将来の夢」を繰り返し書かされ尋ねられ、僕らは自然と「なりたいもの」を中心に人生を見通すようになる。それは見える世界の範囲の拡大にともに拡がり、見ている世界の解像度の向上によって狭まっていく。最終的には昨今の厳しい就職活動の中で、自分の「スキ」をどれだけ残せるかに食らいついて闘うのだろう。あるいは就職後も、自分の「スキ」に従って職業を飛び越えていくのかもしれない。

 

 

そして僕は、その流れを最初から外れているように見えるらしい。

 

 

 

社会奉仕、というのだろうか、総称して何と呼んだらいいのかわからない。

紛争調停、人権回復、環境保全、医療支援、生活向上、平和、平等…。そういう言葉で表されるものの方を向いて、NGOなんかで活動している人のこと。

 

全然十分じゃないな。言葉ですべて含めるのは難しい。

自分の人生設計や職業選択を、好きや憧れではなく、なんからの目的と使命に基づいて考えてるように見える人、と言えばいいだろうか。

 

 

自分の設定した社会課題にアプローチする、というような、よく言われる起業家精神のようなものとは、ややこしいのでここでは別物とさせてもらいたい。

 

 

 

こういう人のことが、そうでない人にはよく理解できないようだ。

 

 

紛争で苦しんでいる人がいるのは知っている。十分な教育を受けられない子供たちもテレビで見た。環境問題も確かに大変なことになっていると思う。

 

それでも、なぜあなたがそれに従事するのかわからない。本当は自分のやりたいことだってあるだろう。自分自身の好きや憧れや幸せをないがしろにして、「誰かのためにはたらく」「何かのために生きる」、そういう姿勢が、どこから来るのか全然わからない。

 

 

その見えない動機を、偽善と呼ぶ人もいる。

 

 

幸いなことに、僕が仲良くしている中には、それを偽善だという人はあまりいない。偽善そのものよりも害の大きい偽善という言葉を、軽率に口にしない人々の中に僕はいる。もしかしたら、僕のことをよく知っているから偽善だと思わないだけかもしれないけど。

 

それでも彼らも同じように、少し不思議そうな顔をする。その生き方の「正しさ」に何も文句をつけられなかったとしても、あなたがなぜそれを決められたのかはやっぱりわからない。正確にいえば、「本心から望んでそれを選択する人格」に実感が持てないんじゃないか、と思う。

 

 

 

質問を受けて、その動機のいくつかを書き出してみることにした。

 

どうかわかっておいてほしいのは、こんなものは所詮僕の感覚と経験による一意見でしかないということ。世界中で社会奉仕活動に従事している人たちには、全く違うモチベーションで活動している人もたくさんいるだろう。僕がここで挙げるものを誰かにあてはめようとするのには、どうか慎重になってほしい。

 

僕がこの記事を書くのは、社会奉仕活動に従事する人々や、誰かや何かのために身を捧げる生き方が、やっぱりどうしても理解できない、偽善なんじゃないかと思ってしまう人に向けて、例えば彼らはこういう感覚を以てその生き方を選んだんですよ、というような、その理屈の中身を少しだけ見てもらおうとする試みだ。

これで何かが誰かに理解されたり納得されるとは思わない。それでも、何も見えなかったものをちょっとだけでも分解してみることで、少しは「偽善」なんかよりも解像度の高い言葉でそれを考えてもらうことができるといいな、と思う。

 

あと、僕が政治社会問題に関わっているのでそっち寄りの表現が多くなるけど、広い意味の環境問題にも同じように言えると思ってほしい。

 

 

 さて、

 

彼らの動機、モチベーション、理由、「それ」には、僕が知っている限り3つの種類がある。

 

A.その活動や生き方そのものに魅力を感じている

B.ポリティカル・コレクトネスに従う生き方を選択している

C.強迫観念的な症状がある

 

 

前提として、「困っている人がいるから助けなければいけない」という規範はまず全員が持っているとしたい。「誰かが困ってようが知らねぇよ俺には関係ないし」と堂々と言えてしまう人はここでは扱いきれない。

「正しさ」の規範を持っていることと、行動を起こしたり自分の人生の選択に絡めたりすることは全く別の話で、「どうして実際にやれるのか」というところにタイプの違いが現れる。

 

 

一つずつタイプを見ていこう。

 

 

Aは、その従事する活動や生き方から何らかの報酬を得ている人のことだ。

たとえば子供たちの笑顔。たとえば自分が誰かの役に立っているという直接的な実感。たとえば仲間と一緒に具体的な何かを成し遂げる達成感。たとえば一般的な会社勤めからの解放。 

カンボジアに学校を建てて子供たちを笑顔にする!みたいな学生団体を例に挙げれば、何となくイメージはつくだろうか。

 

これらの報酬はたいてい、問題解決のプロセスの中では副次的とされるものだが、彼らにとってはそれが最も重要なモチベーションになっている。そのことは、問題の根本解決という観点から見たときに必ずしも本質的とは言えない活動内容に、しばしば彼らがこだわって従事しようとすることに見て取れる。(ここで僕に彼らを批判する意図はないことに注意してもらいたい。詳しくは後述する。)

 

いわゆる「やりがい」を動力源としている彼らのタイプは、他の職業と同じように「生業の選択肢」のひとつとしてその生き方を選択した、とも言える。

 

 

 

Bは、「あらゆる問題に連帯意識をもって一人一人が行動を起こすべきだ」というようなポリティカル・コレクトネスが内在している人のこと。内在している、というのはフェアな言い方ではないかもしれない。実際には、”正しい”人間であろうとするはたらきが行動原理になっている人のことだ。

 

コレクトネスが自然に行動原理に組み込まれた経緯や理由はそれぞれで、それによって自己肯定感を保っているというのが一番多いかな、と個人的には思っている。そしてこのBのタイプに特徴的なのが、その経緯に無自覚あるいはわからないという人が一定数いることだ。彼らにとってポリティカル・コレクトネスに準ずるのは当然のことで、社会人としての義務であり、そうでない人が全員「故意にルール違反をしている」ように見えてしまうこともしばしば起こる。しかし実際には彼らの生育環境がコレクトネスへの批准を”習慣づけた”のであり(特に受けた教育の質と量が大きく影響する)、彼らのように「たまたま」自然に正しさに従えるようになるのはごく限られた人々であるということは、受け入れられにくいけどやっぱり分かっておいた方が良い。

 

一方で、このBのタイプの人が、問題の根本解決に最も効果的に貢献し得ると僕は思っている。何でもそうだけど、問題の理解と解決への道筋の模索は本当に深い知識と考察が必要で、自分自身へのリターンや貢献しているという実感からはるかに遠く離れたところで行動のための意思決定をしなければいけない。自分の生活をそのプロセスに委ねられてしまう覚悟とモチベーションは、やはり「正しさの追求」を以てでないと難しいように思う。

 

また、このBはflexibilityの点で本人にとっても都合の良い感覚だ。自他の区別がしっかりついてさえいれば、活動に携わる時期、程度、長さ、対象を自分の意思で選択することができる。夢だった外資系企業でのキャリアが一段落ついたから1年間途上国の教育支援に参加してくる、とか、アーティストとしての活動で得た収入の一部を環境保全活動に寄付する、なんて選択ができるのも、このタイプの人ならではだろう。

 

 

 

最後のCが、一番厄介で一番興味深い。そして一番説明が難しい。

 

例えば僕の場合。

全然正確には覚えていないのだけど、たぶん小学校低学年ぐらいの時に、テレビのNHK特集かなにかでどこかの戦場となった街を見た。頭から血を流した少女が半壊したビルの横を走り抜けて必死に逃げる映像を観て、初めて「そういう世界」があることを知った。そしてその時から僕は、自分の将来的な幸せを考えられなくなった。

もちろん日常的には、美味しいものを食べて幸せとか、好きな人たちと遊んでて楽しいとか、そういうことは普通にあるし普通に感じる。ただ、将来の夢とか、人生設計とか、そういうことを自分のスキなものややりたいことに基づいて考えることができなくなった。自分の人生を、自分の幸せを実現するものだと思えなくなった。

その始まりの体験を忘れてしまっても、僕は自分の「将来やりたいこと」が想像できないままだった。やることはもう決められている気がして。何度か口にしていた旅行家や起業家というカタチも、「それ」に関わる方法を模索してる感じ。国連職員になりたいと言ったこともあった。

 

大学に入るまでに、自分の中のその感覚が何なのだろうかと、ずっと言語化を試みていた。いくつか形になったものは以下の通り。

「自分の幸せを実現している状態がa、自分の努力と運で幸せを実現できる状態がb、幸せのチャンスも自由への道も与えられていない状態をcとする。世界に未だcである人が存在する以上、bである自分がaを目指すことは許されていない。」

「助けを求める人々や解決を待つ問題があることを知っていながら、自分のやりたいことを基準に行動を選択するのは、彼らを無視する自己中心的な考えだ。」

「自分の中に(自分の知る世界中の人)が内在していて、彼らの一人でも幸せを奪われているならすなわち自分も幸せにはなれない。」

それぞれが、僕の感覚を部分的に言い表している感じ。ちなみに一つ目のやつは、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に似たようなセリフがあるらしい。(「世界の全員がこの汽車に乗れないのなら、僕もこの汽車には乗れない」というやつ。ご存知の方は教えてください)

 

そして僕は、僕の理性と基本的人権に関する知識のすべてを以て、上記の一切が間違っていると断言できる。助けを求める人が目の前にいたとしても、僕らはそれを無視して自分の進みたい方に歩いていく権利がある。あるいは、最低限の適当な補助をしてあとは放っておく方法もある。そして、それらを気に病む必要も全くない。(抽象的な話をしているので隠避罪的なのは置いといてください)

それでも僕の中の感覚は、彼がひとりで歩けるようになる前に僕が進み始めることを許さない。たとえ理性でこんなの間違っていると理解していても、死ぬときに自分の人生を許せなくなることがわかっているのだ。それ故に僕は、これを「症状」と呼ぶ。

 

一方で、「症状」と呼ぶからには、この感覚には人によって程度がある。僕が出会った中には、「自分のスキなこともあるんだけど、その前にやることがあるよねって気がするんだよね」と、夏休みの宿題のように捉えている人もいた。幸いなことに僕も、Bのタイプも(環境のおかげで)少し持っていることもあり、自分の身を奉仕活動に捧げることには抵抗がないというか諦めがついていて、この感覚はモチベーションの維持とブーストに利用するぐらいになっている。症状の程度というよりは、付き合い方や乗りこなし具合といった感じだろうか。悲惨なのは本当にやりたいことが他にある場合で、自分のスキややりたいこととそれへの道があるにもかかわらず自分自身がそれを許さないという葛藤を、なんとか押し流して納得させなければいけない(多くの場合自分のやりたいことの方を諦める)。

 

ちなみに、この強迫観念は他人にあてはめられることはない。「苦しむ人を助けないことは罪だ」と思っていたとしても、それはあくまで自分自身にのみ課せられた責任で、「あの人は手を差し伸べていないから許されない」とはならない。多くの人は自分がこの感覚に”囚われている”のだと自覚している。

 

もう一つ、このCのタイプには、対象が固定されることがあるという特徴がある。何故だかわからないが、まあこのタイプは総じて不条理なのだけれど、動物の赤ちゃんの「刷り込み」のように、自分に課せられた(と感じる)責任の対象が自分の意思と関係なく固定されることがあるのだ。自分の思う諸事象の相対的な重大さや逼迫性とも関係なく。もちろんこれにも程度があって、いくつかの選択肢を許されている人や、対象の制限が全くない人もいる。ただ、自分で対象を選ぶことさえできない人もいる、ということは知っておいてほしい。

 

 

 

感じた人もいるかもしれないが、BとCはけっこう似ているし判別しにくい。Cの中でも症状の軽い人はBとかなり近い感覚を持っていることもある。

だがそもそも、一人の人が一つのタイプだけに属しているわけではない。多くの人がいくつかのタイプを持っているし、大抵の人は他人に感謝されたらやる気が湧くだろう。ただ、きっかけや根本になるモチベーションは何か、という質問に意味があるだけかもしれない。

 

それに、他のモチベーションだってあると思う。僕は、大学の講義でパレスチナの実情と実際に起きた出来事の記事を読み、そのあとの昼休みを大講堂の隅で一人で泣いていたことがある。こんな現実があることを知ったまま、この世界で幸せになんかなれるわけがない、と思った。これは、Cの強迫観念とは別の場所にある、僕自身の主体的なモチベーションだ。

 

 

 

個人的に考えたこととして、Cの感覚は自分の人生そのものに目的が与えられている、つまり人生は組み立てるのではなく外的な何かのために消費するものというアイデアで、これは逆説的に自分自身の人生に対する責任を放棄できるものだという解釈があるのですが、

本旨に関係ないし長くなるのでここでは書かないことにします。

 

 

 

 

 

 

 

そして、偽善と呼ばれるものについて。

この記事で一番書きたかったこと。

 

まず、これは前提として当然のことと思ってほしいのですが、完全な善意というものは概念でしかありません。善いことをするのは良いことだ、ということは知っていて、理解はしていても、それを実装するには、(実装というだけあって)自分自身に引っかけられる利益という土台が無くてはいけません。

それはもしかしたら「善いことしてる自分が好き」という自己肯定感かもしれないし、相手からの感謝が嬉しいのかもしれない。周りからの評価を期待している人もいれば、実際に何らかの見返りを求めている人もいるでしょう。あの世での救済のためという信心深い人や、Cのように義務感を持っている人もいるかもしれませんね。

上にも書きましたが、善い行動が染みついているような人も、これらが習慣化したものあるいは環境が植え付けてくれたものがほとんどなので、「私は完全な善意を持っている」と優位に立てるものではありません。

 

人によっては、これらのどこかに線を引いて、「狙っているものがあからさまだからここからは偽善」などと言うのかもしれません。多かれ少なかれ自分自身に結び付けている以上、本質的にはみな同じだと僕は思いますが。

 

そして、最も大事なことは、

 

動機としての善の質よりも結果としての善の方がはるかに重要だ

 

ということです。

 

正確に言うと、質の高い善意が結果としての善を生まなかったらそれは再考の必要があるけれど、結果としての善は必ずしも質の高い善意を必要としない、という理解が大切なのです。

ここから論理的に、偽善的な善意が結果としての善を阻害するとは言えない、とも言えます。

 

基本的に、結果としての善を確実に高める唯一の手段は、深く深く知ることです。しかし、誰よりも詳しくなった専門家でも、良かれと思った行動が事態を悪化させてしまうことはあるものです。ましてや善意の質のようなものがその行動の結果を左右するかどうかなど、確率論でしかありません。

 

そもそも個人が善いことをする義務なんてないし、それぞれが各々好き勝手に振る舞い生きる権利があります。それでも何らか自分の利益に結びつけて、善いことをしようとするならば、その行為は決して偽善と非難されてよいものではないと思うのです。

 

この記事を書いているときに、たまたまアイルランドのロックバンドU2が13年振りに来日公演を行い、その中で社会問題についての言及と提起があったと聞きました。そして、U2がプライベートジェット(環境へは悪影響)を利用していることを引き合いに出し、彼らのパフォーマンスを偽善的だと非難する声があったとも聞きました。(聞いただけです。僕自身で確認はしていません。ただ例として、もしあったのだとすれば)

僕らは、U2にプライベートジェットの利用を止めるように求めるべきであり(セキュリティなどの問題もあるのでしょうがそれでも訴えることに意義はあります)、彼らの社会問題へのアプローチをその文脈で非難すべきではありません。

普段道端に煙草を捨てる人がサッカー観戦後に客席のゴミ拾いをしていたとして、僕らがすべきはポイ捨てへの注意であり、ゴミ拾いを偽善だと言うことではないのです。

 

この記事の前半の大きなテーマですが、そもそも善なる行為に身を捧げようという人はほんの一握りしかいません。世界の様々な人権問題から、すぐそこの近所の衛生管理まで、社会制度と共に人々の「ちょっと良いことした気になろう」というインセンティブが、大きな集合としての善を支えています。この中にいて最も有害なのは、動機としての善意の質にこだわり、結果としての善の生産を阻害してしまうことではないでしょうか。あまりにも利己的な見返りを求められたら「知らんわ」と一蹴すればよいだけの話なのです。

 

人々のそうしたインセンティブを利用した悪質なビジネスが蔓延っていることは確かですし、私たちが注意して闘わなければいけない相手のひとつでもあります。しかしそれに対抗し得るのは確実で深い知識であり、善意の質ではありません。

 

 

もう一つ、前半のAの説明のところで保留にした件ですが、問題の根本解決に本質的とは言えない活動にも、重要な意味があります。

支援、というか問題へのアプローチには、問題の根本解決を目的とするものと、状況の悪化を防ぐための継続的な応急処置とがあります。一見問題の解決に貢献していないように思える活動が、現状がこれ以上悪化するのをギリギリのところで間に合わせ続けているという例は、様々な場所で見られるものです。それがたとえ「子供たちの笑顔」を動機にしていたとしても…、というのは上で書いた通りです。

 

 

 

 

 

なぜか途中から文体が変わっていましたが。

 

質問された以上のことを書きすぎてしまったかな。とりあえず、善的な心の働きについて現時点で僕が思っていることは、以上の通りです。

 

 

個人的には、良いことしてみようかな、と動いてみるのも、良くないことしてないかな、と自分を振り返ってみるのも、好きな方からでいいと思います、僕は。

 

あなたが今良いことをしようと思ったその気持ちは、誰にも非難されるものじゃない。

盗み殺しをはたらいた後にクモを一匹踏まないでおくことも、良いことらしいですし。