知らんけど

楽天家気取りの考え事と日記

西岸地区、6日間  二日目

 初めての、ラマッラーでの目覚め。ホステルで目覚ましのアラームをかけることをなんとなく遠慮して、目が覚めたときに起床でいいや、ってことにしていた。7時半。まずまず。

 

 ルーフトップでフリーの朝ごはん。パンの切れ端に、ジャムやオリーブオイル、ザタルをつけて食べる。このザタルという調味料はパレスチナではすごくポピュラーで、日本でもパレスチナ出身の知り合いの人にごちそうしてもらったことがある。慣れるとクセになる味。それと、これもフリーの紅茶を、レモングラスを噛みながら。なかなか良い朝食。

 

 宿泊客と話していると、ヘブロンへの行き方を教えてくれた。やっぱり西岸地区内の長距離移動はバスが一番良いようだ。

 

 

 アラファトミュージアムにもう一度行っておきたかったので、街をちょっとぶらついてからミュージアムに向かう。パン屋でも開いてたら追加で朝食を買おうと思っていたけど、朝9時過ぎの街はまだ全然何も開いていない。そのせいで、ミュージアムのオープン時刻よりかなり早く着いてしまった。仕方がないので、その辺の住宅街を散策してみる。パレスチナはいつも本当に、バカみたいに天気が良くて、群青の空と家々の白いブロックと、庭に植わってるブドウの樹が綺麗なコントラストでよく映える。

 

 そうこうしているうちにめちゃくちゃトイレに行きたくなって、ミュージアムの開館と同時に駆け込んだ。この白い大きな建造物も、朝の強い光の中ではさらに輝いて見える。昨日よりはゆっくり見られるかと思っていたけど、今度はホステルのチェックアウトの時間に追われ、結局昨日よりも滞在時間は短く。メインコーナーのパネルはあまりに多くて、二日合わせても1割も読めなかった。

 

 ミュージアムを出るとき、欧米かららしい団体のツアー客と入れ違った。パレスチナに団体ツアーで来るって、どんな感じなんだろう。ガイドさんは、どの事実にも政治的解釈が絡むこのややこしい現状を、どう説明するんだろう。

 

 

 また20分歩いてホステルまで戻る。もう昼前なのに、やっぱり町は静かで、店は全然開いてない。唯一、このあたりで人気らしいジュース屋が開いていたので、ちょっと悩んでバナナジュースを買った。ギリギリジュースと呼べるぐらいの、もったりとした濃厚なバナナ感と舌ざわり。ちょっと実家を思い出した。日本人というと店員さんはとても喜んで、めちゃくちゃ笑顔で色々話してくれた。

 

 

 チェックアウトを済ませ、また道行く人々に聞きまくってバスステーションにたどり着き、ヘブロン行きの乗り合いバスに乗り込む。ヘブロンまで砂漠の中のハイウェイを走るのだけど、パレスチナの乗り合いバスはエアコンつけないからずっと窓が開いてて、その風が後部座席の僕にもろに直撃してて、ヘブロンまでの道中ずっと顔が歪むぐらいの暴風に晒されてたもんだから、到着するころには顔の皮膚がカピカピになっていた。勘弁してくれ。

 

 僕の初心者ぶりは見て分かったようで、前に座っていたムスリマのお姉さんが、バスを降りるときに話しかけてくれて、ホステルを探すのを手伝ってくれた。ヘブロンの大きなホテルのフロントで良いホステルがないか聞くと、ぼくのスマホにメモ書きまでしてくれた。お姉さんもホテルマンもめちゃくちゃ親切で、本当に助かった。

 

 

 タクシーの運ちゃんに教えてもらって、ホステルが入っているというビルに恐る恐る入ってみたけど、照明もついてないし誰もいない。と、後ろから小さな男の子が走ってきて、「ホステル?ウェルカム!」と言う。どう見ても未就学児の年齢。彼は僕をエレベーターまで引っ張っていって3階のホステルに案内し、誰もいないフロントに座ると僕にパスポートを出させ、チェックインの手続きを済ませて、ホステルの中を案内してくれた。信じられないことに、どうやら彼はホステルの接客業務をすべて一人で任されているようだ。しかもすべて英語で。どう見ても小学校に上がる前の子どもが。すごい。

 

 案内された自分のベッドに荷物を置いて一息ついていると、地元の人らしい男性が入ってきた。この町のことを教えてくれるという。ホステルのオーナーかと思ったけどそうではないらしく、でも事務所から資料やらパソコンやら持ち出してきてるから、たぶんホステルと提携してるツアーガイドか何かなんだろう。

 

 彼が教えてくれたのは、この町にある占領のこと。ここヘブロンには、有名なシュハダストリートがある。かつては街のメインストリートで、多くのパレスチナ人が暮らし、往来し、栄えていたその大通りを、イスラエルは入植地の一部として占領した。もともとシュハダストリートに住んでいたパレスチナ人は現在番号によって出入りを管理され、それ以外のパレスチナ人は一切立ち入ることができない。イスラエルはこの封鎖に明確な理由付けをしておらず、「命令だから」の一点張りでパレスチナ人を締め出す様子がYouTube動画でもあがっている、のを見せてくれたのだけど、自分では見つけられなかった。

 

 具体的に占領の様子を見てみたいなら案内する、と言われ、もちろんそれが目的の旅だったのでよろしくお願いした。

 

 

 シュハダストリートの入り口は、ホステルの前の通りを下ってすぐのところだった。わりと幅のある道路が黒いフェンスの頑強なゲートで塞がれ、武装したイスラエル兵が常駐している。フェンスの上にはこちら側を向いた監視カメラがふたつ。

 

 その一本となりにあるのが、旧市街に繋がる大通りだ。トラックが2台すれ違えるぐらいの遊歩道の両側に4~5階建てのアパートが並び、その下にたくさんの露店が軒を連ねて大きな市場になっている。人通りも多く、地元の人々で賑わう市場。こういう喧騒の中を歩くのはとても楽しい。だがこの通りもまた、占領の影響に直接晒されている。

 

 市場から上を見上げると、通りの両側の建物の3階あたりから横向きにフェンスが伸びて中央で空を閉じ、アーケードのように市場全体の頭上を覆っている。かつて、この通り沿いのアパートにはパレスチナ人たちが住んでいた。イスラエル人入植者がシュハダ通りを封鎖した後、このアパートからもパレスチナ人は追い出され、代わりにイスラエル人が住むようになったらしい。そして、上階に住むイスラエル人が窓から生活ゴミを市場に向かって投げ捨てるのだという。屋根のようなこのフェンスは、頭上から突然降ってくるゴミから市場の人々を守るためなんだそうだ。見ると、確かにフェンスの上にはゴミが散らばっていた。

 

 そして、パレスチナ人とイスラエル人の活動範囲が文字通りとなり合ったこの市場では、イスラエル側の警戒も厳しい。両側の建物からはいくつもの監視カメラが通りを見下ろし、屋上にはイスラエル武装兵が直接市場を狙える待機所が各所に設けられている。ガイドのおじさんはその一つ一つに立ち止まり、指さして教えてくれた。

 

 旧市街に入る。ここはエルサレムの旧市街とはまた全然違う。石壁のような土壁のようなのが足元から頭上までトンネルをつくっていて、所々で分かれながら、ずっと先まで続いていく。まるで洞窟の中を歩いているみたいだ。そして、ところどころに脇道が、さらに下へと延びている。この旧市街に千数百年前から人々が店を構え、行き交っていたのかと思うと、歴史にそれほど詳しくない僕でも少しワクワクした。

 

 しかし、今僕が歩く旧市街は、お世辞にも活気があるとは言い難い。わずかに点在する露店に訪れる客もほとんどいないくらい、人通りも少ない。数十年前までこの旧市街は、その枝分かれした通路が街の様々な場所に通じ、今よりずっと広い範囲から人々が直接アクセスできたようで、多くの人が往来する大きな市場がここにも栄えていたらしい。今、その通りのいくつかが、明らかに人為的な形で遮断されている。ある場所では鉄の扉が太い鎖で固定され、ある場所ではセメントのようなもので文字通り塞がれていた。イスラエル人入植者が、入植地に繋がる、あるいは近づく恐れのある通りをすべて通れないようにしてしまったのだ。アクセスの悪くなった旧市街を通行する人は激減し、千数百年栄えたこの場所は一気に寂れてしまった。「この向こう側に、祖父と親父のレストランがあったんだ。俺もそれを継ぐつもりだった。」と、固く閉ざされた鉄の扉に手を当てて、ガイドのおじさんは言っていた。

 

 旧市街を歩きながら、一度煙草を勧められた。今はいいです、と断ったけど。彼は金曜日にだけ煙草を吸うらしい。そういうのいいな、と思った。

 

 旧市街を通り抜けた先に、というか旧市街がここにたどり着く、という感じなんだけど、ヘブロンの名所、アブラハムモスクがある。その規模から歴史から桁違いなこのモスクもまた、その中にユダヤの聖地も含まれているという理由で、一度イスラエルに占領され、アラブ人は締め出された。そして再び開放された時には、内部が壁で二つに区切られていた。片方はイスラムのモスク、片方はユダヤシナゴーグというわけだ。現在、パレスチナ人はもちろんシナゴーグ側に入ることはできず、モスク側に出入りする際にも、アブラハムモスク全体を管理しているイスラエル兵に市民カードを提示しなければならない。

 

 この日は金曜日だったのでモスク側に入るのは明日にして、シナゴーグ側を見ることにした。パレスチナ人のガイドのおじさんは、下で待っていてくれるらしい。おじさんと一旦別れ、ユダヤ人と観光客しかいないシナゴーグの敷地にドキドキしながら入る。

 

 それにしてもデカい。歴史の中でモスクや教会が様々な宗教の祈祷所に移り変わっていくのは中東ではよくある話だから、アブラハムモスクも元々が何だったのかは実際に調べてみないと分からないけど、これはまるで城だ。強大な石を積み上げた城壁をそのてっぺんまで見上げようとすると、首をいわしそうになる。本当に、モスクともシナゴーグとも、教会とも思えないようなスケールと堅固さだ。そのわりに、大きな庭を歩いて階段を上り、中に入ると拍子抜けするほど普通のシナゴーグ。聖書の並ぶ書斎を通り抜けた先の祈祷場では、男女別に仕切られた空間にプラスチックの椅子が並べられていた。そして肝心の聖地、「ヤコブの墓」は…… 柵で囲まれ、シナゴーグ側からもモスク側からも触れられないようになっていた。

 

 シナゴーグを出て、庭の猫たちとちょっと遊んでからガイドのおじさんと合流。アブラハムモスクを境目に、旧市街と反対側はイスラエルの入植地になっている。シュハダストリートにもつながる入植地だ。中を見てくるといい、と言われた。おじさんはもちろん入れないので、ホステルの前のあのゲートのところで落ち合おう、というわけだ。初めて、イスラエルの入植地に入ってみることにした。

 

 倉庫のようなものが並ぶだだっ広い道路の途中から入植地になるのだけど、そこには境界線もフェンスも何もない。ただ、起点となる道路の端にあるチェックポイントにイスラエル武装兵が常駐しているだけだ。乾いた風が砂埃を巻き上げる通りには車ひとつ、人の一人もいなくて、あまりにも殺風景で、それだけで少し緊張してしまった。

 

 チェックポイントでパスポートの提示を求められてちょっと焦る。パスポートなんてホステルに置いてきてたし。でもヘブライ大学の学生証を見せたら、ちょっとトランシーバーでやり取りして通してくれた。

 倉庫の並びを通り抜け、車の走っていないジャンクションを歩いて渡り、住宅街に入っても全然人がいない。金曜日の昼間だからまだシャバットにも入っていないはずなのに、真昼間の通りを歩いている人間が僕だけというのは、どうも気味の悪い悪夢を見ているようだ。たまに、左右の家々のいくつかから子供の声が聞こえてくる。

 

 記念館のような建物に、この地の歴史がいくつか書き出されていた。聖書時代から、20世紀後半まで。ユダヤにとってもこのヘブロンは、聖書にも記載のある聖なる土地だ。当然、彼らにとっての物語がある。

 

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 誰にも合わないまま住宅街を通り過ぎ、あのゲートを抜けた。ゲートの向こうにまだガイドのおじさんはいなかったので、ずっとそこに座ってるパレスチナの警官だといういかついおっさんたちと少し話した。僕は、ずっと気になっていた、入植地の中で見たあるものについておっさんたちに聞いてみることにした。「入植地の中で、すごく大きな墓地を見たんですよ。所々壊れていて、かなり古い墓地のように見えたから、いつのものなんだろうと思って。あれは、アラブの墓地ですか?それともユダヤのなんですか?」「両方だよ。混じってる、というか一緒になってる」 かろうじて聞き取れたアラビア語の言葉に、思わずハッとした。そうか、あれはまだユダヤとアラブとクリスチャンが共存してた時の墓なんだ。あの墓地があのままでまだ存在しているということに、胸が締め付けられるように、少しだけ泣きそうになった。

 

 ガイドのおじさんと無事再会し、交渉の末150シェケル(4500円)払った。わりと取られたけど、あれだけ充実した内容で、ヘブロンに来た目的はあらかた果たせたと言ってもいいほど色々見せてくれたので、損は無いだろう。

 

 

 少しだけヘブロンの山の上の方を散歩してみた。ヘブロンの急坂にへばりつく集落は、エルサレムの旧市街のような洗練された雰囲気も、尾道のような繊細さもなく、ひたすらに荒々しさだけを感じる。あまりに無骨で、どこにも道を示していないから、好奇心だけでどこへでも行ける、って感じ。家の屋根の上で子供たちに追いかけられるとか。遭遇する子供たち全員にかなり濃いめに絡まれたからちょっと困ったけど。坂を上りきったところからは、ヘブロンの街も、イスラエルの入植地もよく見えた。

 

 

 ホステルに戻ると、オーナーが食堂に誘ってくれて、少し話をした。僕がヘブライ大学に通っていて今は西岸地区をまわっていると言うと、それはいい、と彼は言った。両方のストーリーを学ぶことはとても大事だと、我々はシオニズムを憎んでいるがユダヤを憎んでいるのではないと。そんなことを話しながら、ヒマワリの種の食べ方を教わった。世界一ちまちました食べ物だな、と思った。

 

 

 金曜日も日が暮れて、そろそろ店が開く時間だ、と教えてもらったので、夕食を探しに街に出た。旧市街や市場とは反対側、ネオンのひしめく街の繁華街の方へ。

 

 中心の大きな交差点にいくつか出ているコーンとコーヒーの屋台の中に、ちょっと違うのが一つあったので近寄ってみる。見ると、一直線のチュロスを次々と揚げてはパッドに積み上げている。いい匂いがしたので一本買ってみた。一口齧ると、いい感じにカラッと揚がった食感と共に、砂糖のたっぷり溶け込んだめちゃくちゃ甘い油が滴る。それはもうジューシーとかいうレベルではなく、高野豆腐並みに中から噴き出してくる。歩きながら齧ろうものならシャツの前面が油と砂糖でシミだらけになるだろう、というぐらい。極端に甘いもの好きの僕には悪魔的なおやつだ。しかもこれで1本1シェケル(30円)。

 

 先に甘いものを食べてしまったが、ホステルのオーナーに教えてもらったシュワラマ屋を見つけた。人気店のようで、小さな店なのに7~8人が店先で口々に注文している。僕もその人だかりに入ってみたけど、一向に注文を聞かれることなく、後から来た客が次々に注文を叫んで商品を受け取っていく。どうやら自分からガツガツいかないと相手にされない、かなり厳しめのシステムのようだ。僕のすぐ後ろにいたお兄さんが、見かねて店員さんを僕のところに呼んでくれて、何とか僕も注文することができた。ここの人たちは本当にみんな優しい。シュワラマは、イスラエルのように山ほどの肉が入っているわけではないけど、味付けがちょっとタレの強い日本寄りの味で、こっちの方が好きかも、と思いながら頬張った。美味しい。

 

 明日の朝食にと、パン屋で総菜パンと甘いパンをいくつか買い、我慢できなくなって屋台でチュロスをもう一本買い、滴る油と格闘しながらホステルに戻った。

 

 

 ホステルに戻ると、同部屋にドイツから来た学生カップルがいた。自己紹介をして少し喋っていると、チェックインをしてくれた男の子が入ってきて、屋上を見せてくれるという。3人でトコトコついていった先には、資材の散らばる殺風景な屋上。そこから見下ろせる街の様子を解説してくれた後、男の子が下階に戻っていったので、ジャーマンボーイと色々話をした。

 

 お互いがこの町で見たこと、明日の予定、ヨーロッパの空気、今のドイツ人の若者はもうホロコーストを自分自身の罪だと感じていないこと、でも自分たちの民族がそういう歴史を持っていることは背負うべきだと思っていること、彼のひいおじいちゃんはSSだったこと、イスラエルパレスチナの対立は本当にややこしくていまだに理解できないこと。僕は、中国での戦争犯罪を背負っている日本人はホロコーストを背負っているドイツ人ほどはいない、と言った。

 

 あとここでも、日本は今本当に右傾化してるよね、と言われた。実際に日本国民が右傾化しているのかということを必ず聞かれるのだけど、いつも困ってしまう。正直僕も分からない。とにかく、様々な面で断絶が深まっている、ということを、少しずつ例を出しながら話している。

 

 ジャーマンボーイに煙草を勧められた。手巻煙草は初めてで戸惑っていると、妹を連れて戻ってきた男の子が吸い方を教えてくれた。詳しいね、坊や。

 

 

 寒くなってきたので部屋に戻り、この日は少し早めに眠りについた。