知らんけど

楽天家気取りの考え事と日記

西岸地区、6日間  五日目   あとエルサレムでの入院のこととか

 

 

8時くらいに目が覚めて、そのまま外に出た。こんなに大きな市場でも、朝8時台はまだ全体がやっとこさ起き出してきたような空気で、開いてる店もそれほど多くない。あまり朝の早い街ではないみたいだ。

市場をぐるっと歩いて、昨日とは別の店であのコロッケみたいなのとミートピザを買い、町の中心のベンチで食べながら周りを見渡す。市場の朝は遅いけど、ベンチにはすでにたくさんの人が座っていて、何をするでもなくそれぞれの方向を向いている。

 

軽く朝食は済ませたつもりで、昨日の夜に決めていたあのおしゃカフェにもう一度足を運ぶ。昨日は夜も深かったのでIce Spanish Cappuccinoをテイクアウトし、そのクオリティにぶちのめされたのだけど、今日は朝なので思いっきり甘いのを。ピーチフレーバーのミルクシェイク。さすがに大味だろうと思ったのに、そこかしこに新鮮なフルーツが山盛りになっているナブルスの街はミルクシェイクのフレーバーまで本当に瑞々しくて、衝撃を受けるほどに、美味しすぎる。スターバックスどころじゃない。加えて、表参道にあったとしてもオシャレな店舗。そしてこういう店に、ちゃんと地元住民が多く通っていることも、このナブルスの街の特徴なんだろう。

 

一度ホテルへ戻り、近くのモスクを調べる。ヒットしたモスクの位置をフロントマンに聞いて外に出たけど、なかなか見つけられないし、着いたと思ってもこれは…?という感じでしっくりこなかったので、市場でミックスジュースを買ってもう一度ホテルに戻った。ミックスジュースはとても美味しい。大阪のみっくちゅじゅーちゅを思い出すけど、それより格段に美味しい。誘惑が多くて、外に出るたびに何か食べ物を買ってしまってるな。

 

また外に出て、目でモスクを探しながら市場をふらふらしていると、道端で朝ご飯を食べてるおじいさん二人組に声をかけられた。二人ともなんだか仙人めいた風貌をしていて、地面に直接焚いた火の上に鍋を煮て、そこにパンをつけて食べている。なんかちょっとくれるらしい、ので、喜んでいただく。鍋の中は、ホモス(ヒヨコ豆のペースト)かと思ったら違って、何かわからないけど肉々しいものをスパイシーな味付けで煮込んでいる。こっちでは久しぶりのビーフっぽい味がして、めっちゃ美味い!ありがとう!さよなら!とアラビア語で礼を言って別れた。

少し歩いたところに、名探偵コナンのグッズショップを見つけた。こっちで初めて見た、ガッツリ日本産文化の輸入品。唐突だな。ちゃんと全部アラビア語になっていた。

 

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今度はちゃんとgoogle mapでモスクの位置をマークしてから、ホテルをチェックアウトした。wifiの外に出るとインターネットの使えないこういう旅では、目的地の方向だけ定めたらあとは人に訊いて訊いて辿り着く、の連続になる。もちろん毎回すぐにうまくいくわけではなく、今回もハンバリモスクを目指していたらアルスモスクへ辿り着いてしまった。ここは大きな単一のドーム屋根のモスクで、単色のステンドガラスが単純な組み合わせではめ込まれた窓が一つの、シンプルなモスク。

引き返してハンバリモスクを探していたけど見つからなくて、小さな路地を覗いていたら、どうやら人の家の敷地に入ってしまっていたらしい。中から出てきたお兄さんに、「ごめんなさい、ハンバリモスクへ行きたくて」と言うと、仏のような笑顔で案内してくれた。あまり覚えてないけど、この辺は頑張ってアラビア語で話していたんだと思う。

アーケードになってる市場をとにかくまっすぐ歩けと言われて、その通りまっすぐまっすぐ歩き、さすがに不安になったところでそれっぽい道を左に曲がると、そこがハンバルモスクだった。さっきの簡素なアルスモスクとは違い、ハンバルモスクはとにかくancientな風貌がすごい。絵本で見た錬金術師たちの仕事場のような細かな石壁の空間の奥には、図書館のようなスペースもあって、仕事の合間らしいおじさんが寝転んだ姿勢で読みふけっている。

モスクを出て、隣の石鹸ファクトリーを少し覗き、デーツジュースを買って今度はヤコブの壁へ向かう。ナブルスの街で有名なものを二つ挙げるとしたら、名産の石鹸と市場のクナーフェだろうか。今回はクナーフェ屋に行けなかったのが心底残念なので、次の機会には真っ先に行こうと心に決める。

 

歩いていると、やっぱりこのナブルスの街は、この市場は、観光客の「求める」パレスチナではないのだろうなあと思う。この街はこの街に生きる人々で成り立っていて、土地と人と生活の伝統は余所者の目に映るべくもなく、文化や習慣や空間はその外に向かって繕われていない感じがする。

 

市場から少し離れたところで、やたらテンションの高い若者たちにテンション高めに捕まってしまった。どうやら地元の悪ガキどものようで、バリバリのパレスチナ方言に全く意思疎通を図れないまま、ずっと喋りかけられ、腕を組まれ、されるがままになっていると、なぜかそのまま学校に連れてこられた。校庭にちらっと見えたバスケットゴールに、バスケできるかな?とちょっと期待する。敷地内に引きずられて入ってくる僕を見てはしゃぐ児童たち。

悪ガキたちは校庭を素通りして職員室まで僕を連れてきた。どうやらというか、完全に悪ノリだったようで、悪ガキどもは先生にどやされ、そのあと先生は丁寧な英語で僕に頭を下げた。楽しかったからいいんですよと返して、ヤコブの壁に行きたいと言うとこれまた丁寧に説明してくれる。思わぬ交流にお礼を言い、一人で「下校」した。

と思ったら、校門を出るとすぐにまた仲間を連れたさっきの悪ガキどもに絡まれ、振り払うのに大層苦労してタクシーに乗り込んだ。昨晩のモスクで会ったおじさんと並んで、この街で受けた最も熱烈な歓迎のひとつとしておこうか。

 

10シェケル(約300円)払ってタクシーを降り、周辺をウロウロ。門も全部閉まってるしどこから入るんだろうと迷っていると、近くの店の店主に声をかけられ、どうやら14時までお昼休憩を取っているらしいことを教えてもらった。ついでにタバコどうだいと言われたので、丁重にお断りしてお礼を言い、仕方ないので近くのモスクへ行ってみることにした。

道中で、このあたりにしてはかなり大きな学校を見つける。表札には「United Nations Relief and Works Agency for Palestine Refugees in the Near East (国連パレスチナ難民救済事業機関)」と「Balata Camp」の文字。後で立ち寄ってみようとマークして、先にモスクの方へ向かった。

 

モスクの階段に小さい男の子が一人で座っていて、案内役らしい老人のところまで手を引いてくれる。男の子は僕の眼鏡ケースが面白かったようでしばらく遊んでいたけど、老人がクロスを丁寧に畳んで返してくれた。

モスクの中は三層くらいの構造になっていて、一階の礼拝所から階段を上がり、女性と老人用だという二階部分まで案内してくれた。単一のドームに緑色のステンドグラスの大きな窓が一つだけあるのだけど、そこを通る光がドーム全体を薄緑色に満たしていて、なんだかすごい空間だ。握手をした祭司が、それぞれの礼拝の仕方なんかを説明してくれる。アラビア語を混ぜた英語で話してくれるのだけど、「女性」を表現するときに手で胸に山をつくってからヒジャーブを被るしぐさをしたりするのがわかりやすいけど可笑しかった。

一階に降りてまた握手し、サヨナラ。まだ時間があるのでカフェでもと思ってしばらく歩いたけど、何も見つからない。どうもこのあたりはさっきの市場と比べて、もちろん規模が違うのだけどそれだけとは言えない活気の差がある気がする。それでも、路地で出会う子供たちには毎回きっちり絡まれてしまう。

 

そうやって、さっきの学校の前でまた子供たちに絡まれていると、彼らより少しだけ年長らしい英語のできるメガネの少年に懇意にしてもらい、すぐそこにあるというヤッファカルチャーセンターで話を聞かせてもらえるらしい、ということになった。中に入ると、施設長らしい女性が「今観光客を見送ってスキップしようかというところだったのに、またすぐあなたが来た」と冗談を言いながら、奥の部屋に通してくれた。学校の表札にあった通り、僕は知らぬ間にBalata Campに入っていたらしい。

ここからは、その施設長が話してくれたこと。

 

このキャンプにはもともとヤッファ(現在はイスラエル、テルアビブの一地区とされている土地)にいた人が多いから、ヤッファセンターと名付けた。施設の役割は、キャンプの子供や女性、特に子供の発達をサポートするプログラムの運営。女性のサポートは、彼女たちの夫や男兄弟が亡くなったり逮捕されたりするため、彼女たちが家庭を支えなければならない立場にあることが多いから。子供たちへのプログラムは、主に発達を支える文化的資本に触れさせること。キャンプでは家々の間が狭すぎるために、子供たちはのびのび遊ぶことができず、騒音問題になるためテレビで娯楽番組を見ることもできない。

難民が発生したとき、国連が受け入れ地としてこの土地を借り上げ、現在のBalata Campとなった。難民化から最初の4年間はCampでもテント生活。その後はユニットが建っていったが、依然として環境は劣悪なまま。

環境が悪いのにもかかわらず、なぜCampでは一家庭平均5人以上も子を持つのか?  ― この地にパレスチナ人の人口を増やすため。この地を「ユダヤ人の多数派」にしないため。"Existence is a protest."

第一次インティファーダはこのCampから始まった。だが結果として、何も成し得なかった。ただ多くの人が殺され、逮捕され、その多くが今も監獄に拘束されたままでいる。もう20年以上も。

私(施設長)は2004年に結婚したけど、2003年には家族が殺されている(2000年~2006年に第二次インティファーダ)。

全ての家庭が、すべての人が、それぞれのストーリーを抱えている。

現在、毎週月曜日にはCampの向かいのヤコブの壁にユダヤ人が祈りに来る。Campには事前に、「絶対に外に出てこないよう」通達される。通達期間中、外にいるのが見つかれば即射撃。先月は二人の若者が果物の荷下ろし中に射殺され、先々週は一人が打たれて負傷、先週は15人もが銃撃に遭った。また、毎晩のようにイスラエル兵が来て外出禁止令を宣言し、外で見つかれば射撃に遭う。イスラエル兵だけではなく大型犬を使ったパトロールや捜索も行うため、Campの人々は家の中で一ヶ所に集まり、光や音が外に漏れないように息を潜めて過ごすこととなる。このような生活で、大人は慣れることもあるが、子供には重大な精神疾患をもたらすことも多い。

ドイツ(おそらく政府)からのCampへの支援が6年契約で、それが来年切れる。私たちはその後も何とかしてプロジェクトを継続し、Campの女性たちを支えていかなければならない。

 

子供たちの文化活動を見ていくかと誘われた部屋では既に子供たちは解散していた。その隣の部屋では黒い眼の女性が僕を見て、「同じね、私もヤーバーン(日本)」と茶化された。なんやねん。

センターの外壁には、このCampを訪れたアーティストやボランティアが子供たちと一緒に描いた壁画がずーっと並んでいる。

そして、センターから通りを挟んで向かいが、施設長の旦那さんの店らしい。プッシュ商品のパレスチナ刺繡は、無地のカバンを仕入れてCampの女性たちがそれに刺繡を施し、収入源にしているらしい。アラブコーヒーを頂きながらいろいろと説明を受け、結局ナブルスの石鹸と旅のお供にクッキーを購入した。ヘブロン産という陶器のお皿が、鮮やかで毒々しくて実に綺麗だった。

 

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アラブのsoap factoryというと背丈ほど積み上げられた石鹸の山のイメージだけど、個包装はこんな感じ

 

施設長たちとお別れして、ようやくヤコブの壁に向かう。この時点で13時50分くらい、開錠まで10分程だったので、アメリカから来たらしいおばさんたちと一緒に門の前で待つ。このおばさんたちも、ユダヤ系なんだろうな。

司祭らしき人に続いて中に入った教会(?)はとにかく縦に大きいつくりで、水平方向の広さは外観でなんとなくわかってはいたものの、この高さが全くの吹き抜けとは思わなかった。中央には偉い人が座る背もたれがめっちゃ長いタイプの椅子が向かい合って配置され、内壁の高い位置にはこれでもかと宗教画が貼り付けられている。ほとんどそれだけの比較的がらんとした空間に、天井から吊るされた、数々のガラス装飾がかなり大きな効果を持って煌びやかさを演出している。

ただ、そんな空間演出もすべて不要だったのではと思うような、少し奥まった階段を降りたところの、小さな空間に張り詰めた例の名状しがたい緊張感。ここがまさしくホンモノなのだと思わされる。

それでも振り返って外に出ようとした門の上の窓のステンドグラスの、なんか、マッ…キー……?で塗った…?と思ってしまうような感じとか、拍子抜けしてしまう。もちろん僕の審美眼が未熟である可能性の方が大きいのだけれども。

教会の周りの庭になっている敷地には、白黒の鶏とガチョウが放し飼いでたくさん。一通り一人で遊んでから、通りへ出た。

 

次の街へ行くため、タクシーを捕まえて、オールジェスチャーでさっき見たバスステーションまで運んでもらう。バスステーションでセルビスの運転手たちにジェリコに行きたいと声をかけるも、どうも要領を得ない。運転手たちがみんな英語が話せないようで、こういう時はなんとなくバカにされているような気分にもなってしまう。周りの人もあまり助けてくれるような気配がなく、ああこの街は毎日たくさんの観光客に慣れているようなところではなかった、と改めて認識した。

とはいえ何とかしなきゃいけないので、先に英語が話せる人を探した方が早いということに気付いて探し回り、結局親切な人たちにこの街の反対側にあるもう一つのステーションまで行く必要があることを教えてもらった。タクシーにその目的地まで伝えてもらい、心からの感謝を述べて送り出された。

このタクシーの運ちゃんもこれまた笑顔が穏やかな人で、ジェリコまでタクシーで行かれたらどうしよう、という不安も杞憂に、もう一つのバスステーションまですぐに連れて行ってくれた。

 

これでやっと、とジェリコ行きのセルビスに乗り込み、運行人数(6人)が揃うまで待っていてもなかなか人が来ない。待っているうちに、セルビスの中に珍しいアジア人を見つけたおじさんが片言の英語で話しかけてきた。

日本ってどこにあるんだっけ?小さいのか、中国とかインドとの位置関係は?お金持ちの国だったよな? 俺は日本は好きだがパレスチナは好きじゃない、海がないからな 海はイスラエルのものなんだ (手に持っていた袋を見せて)この靴は妹に買ったんだ、いいだろ 君はsingle?彼女はいるの?日本と離れて寂しくないのか?(僕はここでyesと言ったんだろうか) 日本では結婚するのにお金いる?アラブではリングもそうだけど、結婚するために女の子(の家族)に1万ドル払わなきゃならないんだよ (道行く女性を指差して)一万ドル!!(なんてこと言うんだと思ったけど、これは笑ってしまった)

しばらくしてこっそりと、「この街から直接ジェリコになんて誰も行かないから、このまま待ってたら4時間はかかるよ ラマッラーを経由した方が絶対に良い」と教えてくれた。それなら30分も話し込む前に教えてくれよ!と思ったけど、おじさんの珍しい話し相手になったのだと思って、感謝してラマッラー行きのセルビスに乗り換えた。

そうしたら僕のジェリコ行きまで伝えてくれたようで、ラマッラーのステーションでは運転手たちがキャッチボールのように僕をジェリコ行きに乗せてくれた。やっぱりおじさんには感謝しないといけなかった。

 

 ジェリコはこれまでの都市の中でも一番ラフな砂漠地帯の中にある。この時はもう日も落ちかけていて、窓を開け放した夜の砂漠のドライブはなかなかドキドキする魅惑的なものだった。

 

ジェリコの都市部が見えてきて、ナブルスの時とはまた違った意味で、驚いた。と同時に、この光景はめちゃくちゃワクワクする。まるでテーマパークの中みたいだと、中学の遠足でもれなくUSJを体験する大阪府民の僕は思ってしまった。

街の真ん中に大きなサークルがあって、そこから放射状に、ネオンに彩られた繁華街が四方に延びている。外側の方は民家になっているようで、中心付近には大きなモスクが二つ。あっちの方に観覧車が見えると思ったら、なんと遊園地のようなものまで見つけてしまった。まるでサーカスのように、砂漠の中に一夜だけ現れた移動式の街みたいだ。とてもとても古い都市なのにそう感じてしまうのは、それらすべてが荒涼とした砂漠の土地の上に直接建っているからだろう。とても好きな雰囲気。

 

ナブルスとは違い、セルビスから降りて3歩歩くと通りがかりのおじさんが「やあ兄さん!なんか迷ってる?」と声をかけてくれる驚きのホスピタリティ。でもそこで教えてもらったホステルの場所は結局見つけられず、タクシーに言われるまま最終的に連れていかれたのは一泊250シェケル(約7500円)のいいホテルだった。またもや二人部屋。フロントまで来ていたので仕方なくチェックインしたけど、こういう時に断って帰れる強さがまだ必要だな。

 

ナブルスでかいた汗にジェリコの砂がはりついて気持ち悪かったので、一度シャワーを浴びてから街へ出た。

 

中心部は全体が夜の街なのかと思うくらい賑やかで、なおかつみんなめちゃくちゃ声をかけてくる。歴史的観光地が周縁部にあるから単純に繁華街への観光客が珍しいのか、三度見くらいされることもある。

ケバブ屋の行列に加わり、前に並んでいたお姉さんと同じものを、と注文すると、小ぶりのハンバーグのようなもの(中東で言うところのケバブ)とフレッシュトマトが入っていて、当時の僕は少し新鮮に味わった。

はずれの方のちょっとしたモールまでしばらく歩くと、とてもスタイリッシュな感じのジェラート屋が入っているのを見つけた。店員のお姉さんがとても綺麗だったのと、フレーバーにPalestineと書いてあるものがあったことが、なんとなく印象に残っている。あれは何の味だったんだろうか。

戻る途中のカラフルなジューススタンドで怖気づいてシンプルにコーヒーを頼んでしまったけど、出てきたトルキッシュコーヒーにすらその時の僕はまだ適応できていなくて、非常に苦戦しながら飲み切ることになった。

 

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砂漠の街の大きな標識

 

中心部の二つのモスクのうち、一つは門が閉まっていたので、もう一つのモスクを覗いてみる。門は開いていたけどこちらも今日の礼拝はもう終わってしまっていたようで、ただ敷地内でサッカーをしている8人くらいの少年たちがいて、ワーワー言いながら僕に手招きしている。どうやら混じれということらしい。バスケやったらボコボコにしたるのにな~と本当に大人げないことを思いながら(パレスチナではサッカーがとても人気)、するすると招き入れられてしまった。

サッカーといっても実際は2チームに分かれてボールを取り合うようなゲームで、「名前は!?」と訊かれて自己紹介を大声で叫び返す、みたいなやり取りを通算10回くらい挟みながら、そのあとちょっと鬼ごっこもしてサヨナラした。

別れ際、子供たちは僕に向かってアイラブユーの指ハートを突き出していた。ナウいね。

 

ホテルに戻る途中でジューススタンドに立ち寄り、バナナとザクロのミックスジュースとペットボトルの水を買う。

 

ホテルに着くころに降り出した雨はあっという間に豪雨になり、窓から見ているうちに大きな雷鳴まで響き始めた。初めて来たジェリコで砂漠のストームが見られるとは、テンション上がるね。

 

 

 

 

 

 

 

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右の肺が半分ほどになっていると言われて、手術のために入院する羽目になった。

なんのことはない、高校の時から引きずっている気胸がまた破裂していたことが分かっただけの話だ。今は手術も終わっているし、右脇に刺さった最後の管もついさっき抜けて、あとは様子を見て退院を待つだけの身になっている。

そう大したことでもない疾患で1週間以上の入院を何度も繰り返していることがなんだか情けなくなってしまうけど、今回はそのおかげで久々にゆっくり本を読めているし、西岸紀行の続きに手をつけることができたのだとも思う。

 

ただ、在イスラエル / パレスチナの日本人コミュニティの会合で僕の卒業研究の内容をお話させてもらう予定と入院スケジュールが完全に被ってしまい、会を延期させてしまったことは本当に申し訳なかった。僕の二倍も三倍も生きている彼の地の先人たちや教授たち、国際協力機構のお偉いさん方数十人を前にして、何者でもないこの若造が自分の関心を話すだけの場を、僕自身の都合で延期してもらうなんて、本当はどう考えてもあり得ないのだけど、入院が決まったことを話したときの幹部の方々の返答の、なんと優しく暖かかったことか。それまで話題にも挙がっていなかった「会を延期させた方が良いその他の理由」を山ほど見つけてきては、「今はとにかく身体を気遣うことが仕事」だからと、僕に謝罪させる隙も与えない。

自分もああなりたいものだと、心から思う。僕の中の「大人」の指標に、「相手を恐縮させずにいたわる言葉を知っていること」が新たに一つ加わった。

 

肺のことに話を戻すと、再発ということは前にも手術しているわけで、前回入院したのが東エルサレムのHadassah Hospital。留学中のことだった。それもちょうど一年前、前回も今回も2月15日に診断を受けている。バレンタインチョコがもらえないとショックで肺に穴が開くだなんて下らないことは言わないけれど、一年を経て全く同じ日に同じ目に遭うとは、ちょっとびっくりした。

実際は一年前の手術後からずっと断続的に違和感はあって、今回は本当のところいつ発症したのかなんてわからないのだけど。この時節に新型コロナでもないのに呼吸器外科の手を煩わせるなんて、と放っておいたらこのざまである。

 

 

留学中にポツポツとつけていた日記がある。

 

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最初、すごく古くなって文字の消えかかった辞書とかに日記書いてるのシブくない?などとわけのわからない恰好つけたことを考えて古本屋を探して歩いたりもしたのだけど、結局そんなものは見つからず、市街地の文房具屋で買ったごく普通の可愛らしいノート。

 

留学生活もかなり後半の方になってから急に思い立って始めたので、前半期のことに関してはごく断片的で印象的なシーンしか記録されていない。それでも、特に2020年の2月から3月末の帰国まで、パレスチナの街や在エルサレムのアジア人男性としての自分に様々な次元で降り掛かった新型コロナの影響なんかについてちゃんと書き残されていて、やっぱり書いていてよかったと思ったりもする。

 

その日記の中に、エルサレムで入院し、手術した経験のこともちゃんと書かれていた。当時から「初海外のエルサレムで肺が破れて手術なんて良い土産話ができてラッキー」程度にしか考えていなかったんだろうと思っていたら、確かにそうなのだけど、それ以外にもいろいろ悩んで考えていたこと、驚いたり感動したりしていた跡が残っていて、一年ぶりに病室で懐かしく読み返していた。

 

2/15 東京海上日動に電話をして予約を取ってもらった病院に行ったが、すでにコロナ=アジアのイメージができていた頃で、「予約取れ」一点張りの受付と予約の有無を巡って怒鳴り合いの末に診察してもらう。即急患に通され、どこからか悲鳴も聞こえるフロアで二人の陽気なお兄さんとお話しした後、診断を受ける。"Pneumothorax(気胸) came back"-"Really"

2/16 病院食が毎回ジャンキーで毎回笑ってしまう。看護師さんは皆良くしてくれて、一日でほとんどの人と話をした。

2/17 スティーブ・ジョブズに似ているという理由だけで信用することに決めたドクターからCT結果の説明を受け、三日後に手術を受けることを決定する。ワクワクする。

2/18 同室の見舞いに来たおじさんにまっすぐ目を見て「コロナ」と言われたことが、(当時)初めて新型コロナで大きなダメージを受けた経験になる。消灯後に研修医らしいアフリカ系の青年がこっそり訪ねてきて、「どうして日本で治療を受けないのか」と尋ねられる。「この病院を信用している」と返すと、「イスラエルの医療はすべて素晴らしいわけではないが、ここに来られたのは良かったな」と。少し話し込んでから帰って行った。

2/19 翌日の手術のための同意書などにサインをする。ドクターの説明も、所々ユーモアに笑ったりもしながらほとんど理解できた。念のため家族にも同意書をスキャンして送ったら、「英語が読めないからいい」と。心配をある程度諦めたらしい。

2/20 リンゴを齧りながら手術を待つ。(エルサレムの友人)が見舞いに来て、Final Fantasyの高度な政治性について話してくれた。とても面白い。手術前にユダヤ正統派のお兄さんが訪ねてきて、クラリネットに似た笛で一曲演奏してくれた。そういう活動をしているらしい。やっと呼ばれて、ニコニコ顔で手術台に向かう。

2/21 寝起きからキッツくて、痛みで首を動かすこともできない。一日寝たきりだったが、夜にまた(昨日の友人)が来てくれた。

2/22 朝から"Today no bed"と言われ、鬼かと思ったけど座ってたらマシになってきた。頑張ってたら看護師のアンマールさんに褒められる。上司が来てくれて、たくさん話をした。女子高生たちとの交流、ラクダのミルクを飲んだ日本人が全滅した話、ICRCの働き方。入院初日の点滴痕をそのままにしていたらドクターに「めっちゃ古っ」と言われて写真を撮られた。

2/23 脇腹のチューブをずるずるッと引き抜くのが大変気持ち悪かった。この日に退院することになり、ドクターや看護師さんたちに感謝を伝える。ホステルに帰ると、置きっ放しだった荷物は知らない間に整理されていて、スタッフが皆で「家族だと思って頼っていいから」と心配してくれていた。

 

このあと、退院後の地獄のような痛みの日々や、厚意で雇ってもらったインターンシップになかなか復帰できない悔しさなどが綴られていく。読み返していると、退院した日にホステルのスタッフから家族のように迎えられたときの、初めて人のやさしさに触れた鬼の子みたいな気持ちがよみがえってきた。このホステルにはロックダウンで滞在できなくなるギリギリまでお世話になり、コロナ禍の後にはお互いを訪れ再会することをマネージャーと約束しあっている。

 

 

一昨日、BTScoldplayの『fix you』をカバーした動画をcoldplayの公式YouTube Channelがシェアしているのを見つけた。そういえば1年前、それまでなんとなく聞き流していた『fix you』のサウンドに泣き、リリックに泣き、繰り返し聴き込むようになったのも、退院後になかなか仕事に戻れず悶々としていた時だった。それ以降、この曲とcoldplayには何度も救われている。そして、小学生の時のKARA以来、10年ぶりに現代のK-POPときちんと出会い直したのも、この留学中のことだった。アメリカ人の友人と一緒に、BLACKPINKのパフォーマンスに度肝を抜かれた。いま一年を経て、僕が再び病院に振り戻されているときにBTSが『fix you』をカバーしたということに、勝手に不思議な感慨を抱いてしまっている。

思えば、いまYouTubeで唯一楽しみに見ているkemioにハマったのも、エルサレムの病院で痛みに耐えていた頃だった。異国の地で色々な経験をくぐり抜けながら出会っていった文化的嗜好が、帰国して一年経とうとしている今に至るまで僕の相当の部分を構成しているというのは、それだけ良い出会いだったのか、僕が進歩していないのか…。

 

 

 

 

 

 

西岸地区、6日間  四日目

 

まさにアラビアン・ナイトの挿絵のような、夜明けの光が天蓋ベッドのレースカーテンに漂う薄明かりの中で目を覚ました。ということはつまりかなりの早起きだったわけで、ロビーに降りると当然他に宿泊客の姿はなく、僕がその日最初の朝食になるようだった。

 

朝食メニュー表に並ぶ小皿から好きなものを選べるらしく、「いくつか頼んでもいいんですか?」と訊くと「全部頼んでもいいですよ」とのこと。全部いってしまうと朝食の量じゃなくなることはわかっていたので、「パンの盛り合わせ以外全部」とお願いした。やはり周辺の安ホテルなどとは格が違い、出てきたものはそのどれもが、デーツの質ひとつとってみても高級感がある。パン無しでも十分に多すぎたフルコースみたいな朝食を、ゆっくりと時間をかけて一つ一つ小皿を味わいながら、硬すぎて歯が欠けるかと思ったグラノーラ以外は大変美味しくいただいた。

 

 

せっかく早起きしたので、涼しいうちに朝の散歩へ。前日にフロントでもらったパンフレットを見て、小さなギャラリーがあるという方へまずは歩き出してみることにした。

 

ベツレヘムの大通り沿いには、地中海沿岸のギリシャ世界を思わせる綺麗な白壁の家々とその間を縫う路地が続き、パレスチナの他の都市とは大きく異なった印象を抱かせる。一枚の絵画のような真っ白なテラスで朝食中のおばあさんが柔らかい笑顔を向けてくれたり、大きな荷物を抱えたアラブマッチョが足元についてくる野良の子猫を困った顔で家に入れてあげていたり、朝からなかなか癒されてしまう散歩道のようだ。

 

街の中心地に近づいてくると、「STAR & BUCKS」や「SQUAREBUCKS」のような店が増えてくる。中には、堂々とSTARBUCKSの看板を掲げている、どう見てもスタバではない小さなボロい小屋もある。いたるところで見られる”STARBUCKSのパチモン”は、パレスチナのB級名物といってもいいだろう。STAR & BUCKSはパレスチナ各都市に店舗を持つチェーン店なのだ。

 

この堂々とした感じがいかにもアラブらしいな、なんて思いながら歩いていると、雑多にひしめき合う市場が突然途切れ、目の前にだだっ広い空間と巨大な四角い石の建造物が現れた。事前に街の地図を全く見ていなかったから気づかなかったのだけど、どうやらふらふらと歩いているうちに、イエス・キリスト生誕教会 Church of Nativityにたどり着いてしまったようだった。そして同時に、このあたりの「異質さ」の正体もあっけなくわかってしまった。ここは、西岸地区でも飛びぬけて「キリスト教色の強い都市」だった。

 

教会の周りにはピースセンターや大小のギャラリーもあるのだけど、不運にも日曜日だったのでその多くが閉館していて(これがユダヤだと日曜はもう週が明けている)、仕方なく僕は、まっすぐ教会へと向かった。

 

本当に、こんなにも呆れるほど巨大な建造物なのに、観光客が頭をかがめて一人ずつ通っていくその正面の入り口は、僕の実家の台所の勝手口より小さい。僕も観光客の団体の後について、幅1メートルも無いような狭い岩の隙間を数メートル進まなければいけなかった。ところが、肩が詰まってしまうんじゃないかと思いながらくぐり抜けたその先には、思わずその道を後ずさってしまうほどの、大きな空間が広がっている。なんで後ずさってしまうかって、なんというか、もう空間の大きさそのものにある種の畏怖を感じてしまうからだ。

もう一つには、縦にも横にも大きく広がったその巨大な空間が、なんだか空っぽではないように感じたから。まばらに観光客が見えるとはいえやはり圧倒的にがらんと空いたその空間に、それでももっと大きな何かが含まれているような圧を感じて、またしても腹の底がひんやりしてしまった。パレスチナの街を歩いていると、こういう感覚にちょこちょこ出会う。

 

とはいえ、教会の内装は実に厳かで美しくて、教会の中央を祭壇まで縦に連なって吊り下げられたモロッコグラス風のランプは、どの角度から見てもこの空間のアクセントとなる優美な明かりを放っている。正面奥のこれまた大きな祭壇は残念ながら工事中のようで、一面に白い布が掛けられていたけど、その布の前で司祭を正面に、観光客を含め30人くらいの人々がお祈りの真っ最中だった。あんなにも大きな声で祈るんだな。

祭壇を回り込み、たくさん掲げられている宗教画を一つずつたどっていると、祭壇の真横から下の方へ降りていく狭い階段があるのを見つけた。下ってみると、上の祭壇の真下に岩で囲まれた小さな空間があり、その床の一か所に人々が代わる代わる口づけをしていてる。この教会がイエス生誕のまさにその地の真上に建てられたんだなと、すぐに分かった。聖地であるイエス生誕のいわば「遺跡」に列をなして口づけをする人々を、その周りに離れて立っている数人の聖職者がなぜかずっと見守っていて、口づけを終えた人々が彼らにお金を渡そうとするのを受け取ったり受け取らなかったりしていた。なんだあれ。

下ってきた方と反対側の階段からまた祭壇の横に上がってくると、そこにはひときわ大きな聖母マリアの絵があって、その前の蝋燭立てに人々が順番に火を灯していき、そのあとまた絵にキスをしていた。蝋燭立てのところで小さな子供たちが遊んでいたので、厳かな空間の唯一かわいらしく世俗的な光景に微笑んで見ていたら、子供たちを少し怖がらせてしまった。

 

教会の裏口みたいなところから外へ出た。市場まで出る途中に宮殿というか別荘めいたところを通ったのだけど、これがまあ驚くほどに美しい。とこまでも続くような白石の回廊や中庭への光の入り具合、中に入れないように閉まってある門の扉の透かし文様までもが、静謐なのに豪勢で麗しく、珍しく興奮して写真まで取ってしまった。

 

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そしてそのあとたまたま通りがかったベツレヘム大学の、その知名度の割の建物の粗末さにがっくりしてしまった。

 

 

この街は生誕教会を中心に商業が展開している、いわゆる城下町的なところが少なからずある。教会を出て、そこからまっすぐに伸びる雑多な市場を客引きをかわしながら歩いていると、ふとキリスト教シリア正統派教会の文字が目に入った。ベツレヘムにシリア正統派キリスト教徒のコミュニティがあるとは此れ如何に、とその「シリアクラブ」なるものを訪ねてみようと降りて行ったところで、小さなカフェのおっちゃんに呼び止められてしまった。

間口が1.5メートル、扉もない小さな空間にものやポスターが山ほど詰め込まれた、キオスクのようなカフェだ。客引きの手練れらしく、めちゃくちゃ気はいいけど一度声をかけた客は逃がさない狡猾さで、「スペシャルなんつくったるからな!」(これくらいの勢い)と何も頼んでいないのに”スペシャルな”紅茶をつくり始めてしまった。あれよあれよという間に一つのカップにミントもレモンもシナモンもジンジャーも詰め込まれていく。商売人魂とサービス精神が同じぐらいの勢いで溢れているようだ。「兄ちゃんも知ってるアメリカの有名なコメディアンも俺の店に来てくれたんだぜ!」と、ポスターに埋もれた一枚の写真の中でアメリカ人らしき若者と店主が肩を組んでいるのを見せてくれたが、もちろん一ミリも見たことがない。店主が騙されたのか俺が今騙されているのかどっちなんだろう。そうするうちに「できたぜ!」とカップになみなみとした”スペシャル”を渡され、「兄ちゃんが思う値段でいいぜ」と言われたので、悩んだ末に10シェケル(約300円)払った。喜んでくれたけど、良かったのかな。味は、あまりにもスペシャルすぎてよくわからなかった。

 

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歩き出したところで、Swedish House MafiaのDon’t You Worry Childのアラブver.がどこからか聴こえてきて、思わず笑ってしまった。エルサレムパレスチナでもAviciiやSwedish House Mafiaのような北欧ハウスミュージックは人気があってよく聴かれているのだけど、たまにそれがクルアーンを朗誦するようなアラブのおじさん歌唱ver.で流れてくることがあって、そのたびに独特の緩いアレンジにめちゃくちゃウケてしまう。

 

 

ホテルに戻る道中で、道端のベンチで煙草をくわえているおじさんから突然「どこから来ましたか」と日本語で話しかけられて驚く。少し日本に住んでいたことがあるんだよ、とのこと。久々に生で日本語を聞いた気がした。

 

ホテルのdorm roomに戻り、相部屋のヨーロッパ人ぽい女性と今日の予定について少し話して、部屋にあったメモ紙でベッドの上に感謝の書置きを残してからフロントでチェックアウトをした。ロビーに降りようとエレベーターのボタンを押したら、そのエレベーターがフェイクだったというオチ。

 

 

ホテルの前からずっと続く壁の周りを歩いて、一面の落書きを見て回ることにした。

壁には実に、実にたくさんの落書きが、実にたくさんの人々によって隙間なく書き込まれている。上書き上書きでぐちゃぐちゃに入り乱れている部分もあれば、壁を構成する1m×8mのコンクリート板一枚ずつに綺麗に記事が宛がわれた、整然とした部分もある。内容はアートの形をした切実なメッセージや、ネルソン・マンデラなど平和活動家の言葉など。壁やこの街の歴史を数十メートルに渡って挿絵付きで綴っている部分には、急病人がエルサレム側の病院に運ばれなければならないのに救急車が壁を通してもらえないというエピソードもあり、それを見て僕は自然に日本の入管を思い出していた。(「出入国在留管理局」で検索)

新聞のコラムの切り抜きを模したような描き方で、壁の向こうのエルサレムから来た女の子と恋に落ちる”こちら側“の若者のストーリーもいくつか見つけた。そして最もいろんな場所で、何度も繰り返し描かれているのは、ある日突然、問答無用で破壊される、パレスチナの家や畑や日常だった。

 

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生誕教会で声を掛けられたタクシー運転手のおじさんに、ジュース屋の前で偶然再会してしまう。強引にテラスのテーブルに座らされてしまったが最後、「格安ベツレヘムツアー」の熱い申し出(客引き)をどうしても振り切ることができず、交渉を粘りに粘った末に往復40ドルでツアーをお願いすることになった。

 

タクシーで砂漠を走る道中、おじさんと話しをしていた。

俺はちゃんと法定速度で走ってるからな、とやたらとアピールしてくる。パレスチナのハイウェイの法定速度は日本のより遅いらしい。

ツアーを受注したことでご機嫌なのか、しきりに「お兄さんは英語が上手いよ」と褒めてくれた。ベツレヘムに来る日本人観光客は皆英語が全然できず、口をそろえて「バンクシーのところへ」としか言わないそうだ。バンクシーが占領のことを発信してくれてるのはありがたいけど、それも分からずに見世物のようにバンクシーだけ見に来るのもなあ…、とおじさんは毒づいていた。

ふと気になって聞いてみると、ベツレヘムパレスチナの中でも発展しているのはやはり生誕教会があるからなのだと。

 

そんな話をしているうちに、ベツレヘムが一望できる山の上に到着していた。俺は車で待ってるから、というので一人で登ってみると、山頂から山の内部を下りていく、数千年前の洞窟遺跡らしかった。言葉で形容しがたいけど、砂漠の真ん中の山で足元の薄暗い洞窟から下へ下へ降りていく感覚は少年心を大変にくすぐられ、僕はちょっとゾクゾクしながら慎重に中を巡った。

 

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駐車場に戻るとちゃんと車があってちょっとホッとする。

 

+40ドルでもう一ヶ所”amazing”な教会へ連れて行ってやるという申し出はお断りし、日本の季節と気候の話をしながら生誕教会まで戻ってきた。ドルとの換算をなんとなくはぐらかされながら結局150シェケル(約4500円)取られてしまったので、お礼を言って別れたその足でポリスにATMの場所を教えてもらって、1000シェケル新しくおろさないといけなかった。

 

ホテルにあったパンフレットで目をつけていたレストランに行きたくて、教会前の広場にいた人たちに聞いて回り、6人目くらいでやっとそのレストランを知っていたタクシーの運ちゃんに連れて行ってもらうことにした。

そのレストランは、エリアCにあった。

パレスチナ西岸地区はその統治体制によって全体がエリアでA,B,Cに分かれていて、エリアCは統治権力や治安維持権力に最もイスラエルの影響力が大きく介入している。タクシーでの道中、僕はパレスチナ人のその運転手がエリアCのことをもはやイスラエルと呼んでいることに気付いた。

ベツレヘムの次はナブルスへ行こうと思っていると言うと、ナブルスへはラマッラーを経由しないといけないよ、と教えてくれた。そうしてタクシーは住宅街の小道を縫って急坂を上っていき、めちゃくちゃ辺鄙なところに到着、「ここだよ」と降ろされた。50シェケル(約1500円)

 

山肌に張り付くように構えるレストランの店内では、ガタイの良いお兄さんたちが開いてるのか開いてないのかわからない顔でダベっていたけど、どうやらギリギリまだランチはやっているようだ。屋根下のテラスでとても眺望の良い席に通してもらった。

大量のハエをかわしながら全然出てこないマクルーベを待っていると、家族連れらしい3人組の女性客が入ってきた。そのうちの一人の短髪の女性がとてもタイプだったので少し見ていたのだけど、彼女たちはなんだかいかにもイスラエルユダヤ人然としていて、なんとも入植者らしい、西岸の他の土地では見ない人々なんだな、と思っていた。

やっと出てきたマクルーベはそれはそれは美味しかったし、とても多かった。

 

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レモネードをプラスチックカップに移し替えてもらって、重いおなかを抱えて歩き出した。エリアCということもあってなんとなく住民に鉢合わせるのを避けたくて、人が集まっているのを見つけるたびに迂回しながら時間をかけて山を下り、やっと最初にベツレヘムに来た交差点までたどり着いたけど、そこからセルビスが全然つかまらない。歩道でうろうろしているところに、対向車線側からクラクションを鳴らしてこちらに手を振っているタクシーがあった。客引きかと思ってかわすもどうもしつこいので、近づいてみると、セルビスの乗り場まで連れて行ってくれるという。怪しいと思いながら恐る恐るお願いしてみたら、本当にセルビスの乗り場まで連れて行ってくれて(歩いては行けないような場所にあった)、しかも15シェケル(約450円)という良心的なお値段。パレスチナでは僕みたいな観光客に対する現地の人々の親切があまりに親切すぎて怪しんでしまい、後で反省することがよくある。

 

 

セルビスに乗って、ラマッラー経由でナブルスに到着。街の中心部で車から降りたその場所で、周りを見回して「なんだこれは…」と立ち止まってしまった。さっきまでのベツレヘムとはまた違う意味で、他の都市と全然違う空気を感じる。めちゃくちゃ都会で、内陸都市なのに臨海リゾートのような爽やかさがあり、同時にアラブの荒くエキゾチックな空気が充満している。

とりあえずホテルを探そうと思って歩き回ってみたけどなかなか見つからなくて、途方に暮れていると、タクシーが止まって声をかけてくれた。英語が通じなかったので、ネットが無くても使えたgoogle翻訳と絞り出したアラビア語でなんとか安いホテルを探している旨を伝え、そこから近いホテルに乗せていってもらえた。

一晩100シェケル(約3000円)で通された二人部屋の中には、たまたまなのかリビングと洗面所で合わせ鏡になっていて、怖がりの僕は思わず「ふざけんな」とつぶやいた。

 

 

荷物を置いてとりあえず市場へ。

人の群がっている人気店らしい店で、アラブのコロッケのようなものを1つで3シェケル(約90円)。とても美味しい。

歩きながらリンゴを齧りたくなって、手押し車に山盛りのリンゴの中から一つ欲しいと声をかけると、リンゴひとつを買うことなんてまずないからか、お金はいいから持って行けと言ってくれる。でもそれはさすがに申し訳ない、払わせてくれと、押し問答の末に2シェケル押し付けるようにしてその場を後にしてしまった。どっちにしろちょっと申し訳なかったかな。リンゴはめっちゃ美味しい。

路地の奥のボードゲームバーから、たむろしていた若者たちに手招きされたけど、さすがにちょっと怖くてお断りしておいた。

 

それにしても、街を歩いていると、どうも違和感のようなものが視界にまとわりついて晴れない。形容しにくいけど、近代化抜きに発展したような独特な感じがする。

 

小さな屋台で、プラスチックカップのミルクプリンに柑橘系のシロップを掛けたようなものを見つけて、即決でひとつ買った。シロップがめちゃくちゃ甘くてのどが渇く系の、僕のお好みの感じだ。西岸では都市ごとに初めて見るような屋台を見つけて、そのたびに必ず買ってしまう。そして外れがない。

 

とってもきれいな満月。砂漠は月が美しいというのは本当だな。

 

ふと道が開けて、市場に遭遇した。さっきのとは比べ物にならない、とても大きくて、賑わいのある市場。その瞬間、直感的に、僕がこの街に抱いていた違和感の正体がわかってしまった。この街には内需があるんだ。

パレスチナの多くが観光業と外来資本に支えられている中で、このナブルスには都市を発展させるだけの内需があったんだろう。この街はいわば唯一の”普通の”パレスチナの街であり、パレスチナ人による産業がパレスチナの人々によって消費されて発展して、この「西洋化抜きの都市化」が進んできたんじゃないだろうか。

そのもう一つの証拠に、この街の人々は商人でもタクシーの運転手でも、英語が全くできない人が明らかに多い。英語ができないと仕事のチャンスが限られてしまう他の都市やエルサレムと違って、この街では地元住民だけを相手に十分商売ができるということも、その特徴の一つの側面なのかもしれないな、と納得した。

 

さすがに市場もその日の営業をあらかた終えた時間で、人に揉まれることもなくふらふらと歩いていると、市場の真ん中にいきなりモスクが現れた。よくあるドーム型じゃなくて四角く細長い普通の建物だからパッと見はわからなかったけど、中を覗いてみると明らかにモスクだ。まだ礼拝の時間ではなかったようで、中には2,3人しか見えなかったので、ロッカーに靴を仕舞って中に入ってみることにした。

 

モスクの中というのは、何回入ってもその空気の厳粛さにビクビクしてしまう。

その辺に座っていた老人の一人が僕に気付くと手招きしてきて、お祈りが終わるまで待っていたらイスラームについて教えてあげると言う。お祈りの時間が近づいてきてたのか、気づくといつの間にかモスクの中にはどんどん人が入ってきていた。

小学生ぐらいの子供から老人まで、お祈りは壁に向かってみんな一列に横並びになって頭を下げる。中央のスピーカーから流れる放送に合わせて一斉に立ち上がったり膝をついたりするのだけど、たまに遅れて入ってきた若者がササッと列に潜り込んで混ざったりしているのが、なんとも人間らしい。足腰の具合の良くない老人は、椅子に座ってお祈りすることもできるようだった。

お祈りが終わると、それぞれ隣の人と握手したり、世間話を交わしたり…。地域のつながりが特別強いアラブの部族社会では、モスクと礼拝の時間がこんな風に人々の毎日の交流の場として、その結びつきを保つ役割をはたしているんだろう。 中には放送が終わっても一人でお祈りを続ける人もいた。

 

さて、礼拝を終えた先程の老人が嬉しそうに僕の方へ歩いてきて、いかにもアラブ風のゆったりとした英語で、イスラームの意味やその教え(「イスラームとは愛なのだ」みたいな)を語ってくれる。いつの間にか彼の友人らしい人たちも集まってきて、結局僕は4人のおじさんに囲まれて日本のことを質問攻めされる羽目になった。その中でも英語の堪能な一人の小柄なおじさんが、特に日本の宗教観について熱心に聞きたがっていて、その質問から関心の中心が「教え」や「戒律」、「禁忌」であるようにうかがえた。

あんまりにも質問攻めが激しく、明日も来いと言われんばかりだったので、明日日本に帰るんだということにしてその場を後にさせてもらった。うっかり信仰告白をしてしまい、「これで君も世界中にいるムスリムの一員だ」と言われてしまったけど、まあこれくらいはアラブをサバイブする術のひとつということで。

モスクを出るとき、棚に置いておいた靴がそのまま残っていたことに、少しハッとする。当たり前のことだけど、それでも僕にとっては、異国の地で他のと明らかに違う靴を無防備に置いておいても盗まれることがないというのは、やっぱり少し驚いてしまう。そして自分のパレスチナの人々への無理解を反省し、イスラムについての話をまた思い出す。ムスリムは法よりもむしろ神からの戒律によって本来盗みをはたらくことはしないし、そもそもムスリムであることがすなわちその人の誠実さの証明でもあるのだと。

 

4人のおじさんの中でも一番熱烈に握手をしてくれたおじさんが、夜道をモスクからメインストリートまで案内してくれることになった。熱心に話しかけながら先導してくれるのをついていくのだけど、旧市街の中のなんとも細く暗い裏路地ばかり進むのでどうしてもビビってしまう。たむろしているお兄さん方のそばを通り過ぎるとき、おじさんがあいさつしたので「知り合いなんですか?」と訊くと、「全然知らない人にでもアッサラームアライクムって言うんだよ」と。

 メインストリートに出る手前で、前から歩いてきたもう一人のおじさんを「兄弟さ」と紹介してくれた。お兄さんにも熱烈なハグを頂いたけど、いやいや、おじさんが西田敏行だとしたらお兄さん高田純次じゃないか。

おじさんは本当にホテルの前まで送ってくれた。「本当は僕の家に呼んでもてなしてあげたいんだけどね」という言葉に、思わずこっちも胸が熱くなってしまう。名残惜しむような熱い抱擁をして、おじさんは帰って行った。

旧市街の暗い路地で前を歩くおじさんに少し不安を覚えてしまった自分を恥じる。本当に、ムスリムの人を疑っては申し訳ない。

 

もう一度だけ街に出て、目をつけていたとってもオシャレなコーヒーショップへ。Ice Spanish Cappuccinoを受け取って、歩き出しながら一口飲んで、美味しすぎてその場で立ち止まってしまった。つくづくこの国のコーヒーのポテンシャルは底が知れない。明日の朝必ずこの店にミルクシェイクを買いに来ようと、その時誓った。

それにしてもスタイリッシュでおしゃれな店だ。ここは堀江か中崎町か。こんな店、ラマッラーにもヘブロンにも、エルサレムにも絶対無いな。

 

ホテルに帰る途中にお茶目な屋台のトウモロコシ屋に呼び止められ、一つ頼むと、トルコアイスのようにひょうきんに一カップのコーンを渡してくれた。10シェケル(約300円)。

 

水を買ってホテルに帰る。エルサレムのホステルで好きだったミントティーにロビーで再会した。一杯飲んで一杯部屋に持ち込んで、この日はお終い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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普段はどちらかというと夏が嫌いで、川と海と素麺と線香で辛うじて容赦してやっていたくらいなはずなのに、いざ引きこもって夏の諸々から逃れてしまうと、不思議なことにそいつらが本来享受できていたお楽しみみたいな顔をして、恋しくさせられてしまうものなのですね。コロナ禍でいろんな事がお預けになっているような欲求不満や焦りと、そんな平和ボケした考えはできない自分、言い換えると、世の中に起こること全ては自分の人生のライフイベントであって、そして自分自身は世界を構成する一要素であること、その二面性というか、入れ子構造というか、矛盾みたいなもの。ちょうど去年のこのぐらいに『GINGER&ROSA』を観てから、そういうことにちゃんと折り合いをつけられるようになってきたと思う。自分の中にポッと生まれた感情を、良いか悪いか評価する前に、まずは可愛がってあげられるようなこと。「大人になる」ことを、誤ってしまわないように。

 

 

西岸地区、6日間  三日目

気付いたら実際に旅してから2か月以上も経ってしまっていた。セメスターの間は本当にやることが多くて忙しくて、こんなものを書いている暇は全然見つからない。なんならあの後また西岸に行ってクリスマスツリー見てきたし。できればセメスターが終わるまでに旅の記録は書き終えられるといいなあ、と思いながら、一番重いレポートを提出して解放された気分でまた書き始めている。

 

 

 

 

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爆音のアザーンで目が覚めた。

アザーンというのは、イスラムの一日5回の礼拝に際してその時間の区切りを知らせ、礼拝を呼び掛ける町内放送のようなものだ。そして当然ながら、その一回目はまあまあな早朝に流れる。アザーンの穏やかな声とゆったりとした抑揚は聞いていてなかなか心地良いものではあるのだけど、これはちょっとアウトプットがラウドすぎないか、と思ったところで、自分がモスクのすぐ近くのホステルに泊まっていたことを思い出した。

昨日の夜は街の端の方から聞こえる鳴りやまない銃声でなかなか眠れなかったし、ここの人たちの耳はたぶんデカい音に慣れてるんだろうな。

 

石造りの街とそれを囲む山肌が朝日に照らされて薄いオレンジ色になっている。綺麗だと思って外に出てみたけど、さすがにどの店も屋台もまだ開いてなかったので、部屋に戻って昨日買っておいた朝ごはんをベッドの上で食べた。美味しい。

 

ご飯を食べたら眠たくなったので、二度寝して、起きて、もう一度街へ出た。

 

 

いくつかの店がポツポツと開店準備を始めている。9時頃になっても街はまだ静かで、僕は昨日見れなかったモスクの方に向かった。

 

旧市街に入る直前で、小さなカフェに呼び止められた。カフェと言っても、コンクリート壁にあいた深い洞穴にパイプ椅子がいくつか並んでいるような感じ。二つ並んだバスボンベと簡易のコンロだけのキッチンでお父さんが準備をしていて、二人の小さい男の子が奥の椅子に座っていた。そのお父さんに coffee? と声をかけられたようだ。ちょうどコーヒーが欲しかったところだったので、つられてみることにした。

何が欲しい?と言われ、何があるのかもわからなかったけど、とりあえずカプチーノはあるだろうと思ってダブルを頼んだ。お父さんがガスコンロに火をつけてお湯を沸かし始める間、促されて椅子に座っていると、二人の兄弟が珍しそうにニヤニヤこっちを見ている。少し話をした。

どこから来たの?中国? — 日本だよ — 日本好き! — おお、ありがとう 俺もパレスチナ好き イスラエルは好き? — イスラエルは嫌い 銃ばっか バンバン! — そっか — 日本と中国は違う国? — そう、隣だけど違う国 日本は自然が綺麗だよ — ここも綺麗なところあるよ — そうだね、俺もここ好きだ

俺日本生まれ、と言って彼はニヤッとした。俺はパレスチナ生まれ、と返して、3人でちょっと笑った。話していたのが英語だったかアラビア語だったかは、もう忘れてしまった。たぶんアラビア語だったんだろうな。

そのうちに、お父さんが「できたよ」とコーヒーカップを渡してくれた。こんなガレージのような店なのにコーヒーはちゃんとした見た目をしていて、きめ細かい泡の上にはパウダーのようなものまでかかっている。猫舌なので注意深く冷まし、少し甘い匂いもするな、と思いながら口をつけてみた。 びっくりした。めちゃくちゃ美味しい。こんなに美味しいカフェモカは飲んだことがない。これで5シェケル(150円)なら、本気で毎朝買いに来たいくらいだ。カプチーノを頼んでいたことなんて、すっかりどうでもよくなってしまった。 Arabic coffeeと同じやり方でつくってなかったか?どうなってるんだ。

 

モスクに行くと言うと、兄弟の友達らしい男の子を呼んできて、彼がモスクまで案内すると言う。昨日行ってるから正直道はわかってたけど、せっかくなので案内してもらうことにした。こっちから頼むわけでもなく、道々で占領の様子を説明してくれる。昨日のガイドのおじさんの説明と被るところもあったけど、男の子の方がいい意味で慣れていない分詳細で、少し感情的に見える。なにより小学校低学年くらいの男の子が語る占領の”歴史”には、いろんなものが透けて見えてしまう。彼は少し英語を勉強しているらしい。

 

 モスクの中はシナゴーグ側よりはるかに開けていて、天井も高く、周囲の壁も頭上も全て黄緑に近い薄い青緑になっている。本当に息を呑むほど綺麗なのだけど、モスクの美しさを描写するのはとても体力を消費するので、これからは簡単に済ませることにしよう。何か美しいものに圧倒されているときは、実際に呼吸が薄くなってしまう。

 

モスクから出ると、男の子が今度は近くのガラス工芸工房に連れて行ってくれた。これぞ洞窟、というか洞穴のような作業場と、簡素な棚にぎっしりと並べられたガラス工芸品。天井にも所狭しと吊るされていて、かなり気をつけて歩かなければいけない。繊細な装飾の施されたガラスランプがとても綺麗だ。自分用にも欲しいしお土産にも買いたいけど、これを飛行機に積んで帰るのはちょっと怖い気もする。

 

彼に勧められて、アラブスイーツを少し買った。君の分も買おうか?と言ったけど、ちょっと恥ずかしそうに遠慮された。さっきまですごくグイグイする子だったのに。

 

兄弟だという、彼より小さい男の子と女の子を紹介してくれた。それぞれと握手をして、3人とはそこでバイバイ。彼に幾分か案内料を渡した気がするけど、忘れてしまった。

 

 

次の都市に向かう前に、中心街の方へもう一度足を運んでみた。とにかく暑い日だったので、2シェケル(約60円)で買ったデーツジュースを飲みながら。デーツジュースはチュロスと並んで、この町で発見した好物のひとつになった。それにしても、こんなに暑いんだからかき氷でもやったらいいのに、と思った。市場には果物が山のようにあるし、神戸の中華街で見たフルーツかき氷を教えてあげたら流行るかな。

 

大衆洋服屋の店先でワゴンセールをやっていた。考えてみれば当たり前なのだけど、ヒジャーブを被ったおばちゃん達もワゴンセールに群がるのだと、その光景がちょっとだけ新鮮に思えた。

 

道端で売られている鮮やかな緑とピンク色のひよこに驚く。日本でも昔は縁日なんかで売ってたって聞くけど、それもこんなに鮮やかで毒々しい色をしていたのだろうか。

その隣の屋台で売っていた小さなアイスクリームにもまた驚かされた。大きめのカプリコのような大きさで1シェケル(約30円)というから買ってみたのだが、なんというか、味がよくわからない。一言で言うと「驚くほどの無味」なのだけど、何も感じないというわけではなく、「無味」という確かな何かを感じる。不思議な感じ、初めての感覚だ、この先も別に出会わなくてもいい感覚だな。

 

 

ホステルで背の高い黒人の兄ちゃんにチャックアウトしてもらって、ベツレヘム行きのセルビスに乗り込んんだ。そういえばこの兄ちゃん初めて見たな。このホステル、普段フロントに誰もいないのに、接客してくれるスタッフが毎回変わる。よくわかんないな。

 

向かうこの旅3つ目の都市、ベツレヘムまでは、前回と同じく乗り合いバスセルビスでハイウェイを窓全開で走っていく。セルビスには僕の他に、親戚同士らしいヒジャーブの奥様方4人と、権威ありげなアラブ男性一人が乗っていた。

 

 

その、道中だった。

 

チェックポイント近くのハイウェイ上で、僕らの前を走っていた車を突然割り込んできたイスラエルの警察車が停止させた。複数の警官に運転席から引きずり出された若者は、拳銃を向けられながら手を挙げて道路にうつ伏せにさせられ、そのまま警察車に乗せられて連行されていった。若者の乗っていた車は警官の一人が運転して。この間、わずか2,3分。さっきまで僕らの前を走っていた彼の車は、おかしいところなど全く見えなかったのだ。

 

あっという間の一連の出来事を目の前で目撃して、セルビスの中では、乗客たちの怒りが渦巻いていた。女性たちはハイウェイ上で突然若者を逮捕するイスラエル警官の理不尽さを口々に罵り合い、60代ほどの男性は相当の怒気をはらんだ声で誰へともなく怒鳴り続けている。かなり激しく早口な口調なので彼らのアラビア語を聞き取ることはほとんどできなかったけど、その怒りの程は身に直接感じ取れた。本当に、荒れ狂う感情に殴られ、胸が物理的に痛くなってしまうほど。

 

彼らの怒鳴っている対象がこの出来事だけではないことが明らかにわかったのも、これまでにパレスチナの現状を学んでいたこともあるけど、彼らの様子からでも十二分に見て取れるものだった。彼らの怒りは、目の前の突然の出来事に対して突発的に湧いたものではない。実際には、こんな理不尽な出来事が、この地域では毎日起こっている。パレスチナ人が実際に抵抗できることはほとんどなく、イスラエル兵一人一人に明確な説明の必要もない生殺与奪の権が与えられている。パレスチナ人は、これに決して慣れることはない。慣れるということはその状況を受け入れるということであり、彼らは与えられた唯一の抵抗の手段として、自分たちが晒されている現状を受け入れることを拒否し続ける。その一つの形としての、腹の底から噴出するような怒りだった。

 

初めて目の前で見たな。

 

 

さて、ベツレヘムについて、まず探さなければいけないものがあった。実はこの西岸地区の旅でこの日だけ、ベツレヘムでの夜だけは、事前にあるホテルを予約していた。実際、ベツレヘムを訪れた目的の半分はこのホテルだと言ってもいい。

また近くのホテルのフロントで道を聞き、長いことカナダに住んでいたというタクシーの運ちゃんに乗せられて、Walled Off Hotelに着いた。

 

Walled Off Hotelは匿名芸術家バンクシーがプロデュースしたホテルで、「世界一眺めの悪いホテル」をテーマにしたそれは分離壁のまさに真横に建っている。客室の窓から外を眺めても、目の前に壁しか見えない、というわけだ。芸術家が経てたホテルなだけあって外観は嘘のようにレトロでシックで、正面では絵本の挿絵から出てきたようなホテルのドアマンが絵本の挿絵のような仕草で出迎えてくれる。なかなか楽しい。

 

中に入ると、ロビーの壁面全体を覆いつくすように、バンクシーの作品が所狭しと並んでいる。そのすべてがイスラエルの占領をテーマにしたもので、何を素材に何を風刺してその裏には何があるのか、一つ一つ考えてみたりする。ただこれ、パレスチナ問題に対する自分の知識量とバンクシーの知識量を把握していないと、読みがわけわからないことになるな、と思った。

 

フロントで出されたウェルカムドリンクが、めっちゃオシャレな見た目なのにしっかりアラブの味で面食らってしまった。手続きをしているときに、スタッフの一人が「どこから?」と尋ねてきたので日本だと答えると、「日本か…」と意味深な反応をされる。聞くと、「ホテル予約サイトのレビューで大抵ずば抜けた高評価をもらえるのに、日本人だけが低評価をつけやがる」のだそう。ほんとか?

 

まだチェックインの時間ではなかったので、荷物だけ預けてロビー併設のミュージアムとギャラリーを覗くことにした。分離壁を中心として、占領の詳細を数字や資料を用いて淡々と明らかにするミュージアム。展示の仕方で、バンクシーパレスチナ問題の発端をどこに捉えているのかがわかるのが少し面白い。工夫を凝らした数々の展示の中で、「イスラエル軍からの電話をとる」というものが特に印象的だった。文字通り突然、日常に絶望が訪れる様子が耳元で実際に体験できる。トラウマになるほどに、パレスチナ人を襲う恐怖がそのまま記憶に刻み込まれた。

 

ロビーでアメリカンとヘブロンで買っておいたアラブ菓子を食べながら、予約していた難民キャンプツアーの開始まで時間をつぶす。アラブ菓子が重すぎてちょっと後悔。

 

 

ツアーの参加者は僕の他に、ニューヨーカーのカップルとドイツ人青年。当時ちょうどトランプ大統領のメキシコ国境壁建設が話題になり始めていたころで、ドイツもアメリカも「壁」には因縁があるね、とツアーガイドと一緒にみんなで笑った。日本にはないね、と言われ、まだね、と返しておいた。反トランプだけどメキシコ国境壁建設には賛成というニューヨーカーたちの意見は興味深かった。

 

難民キャンプまで、壁伝いを歩きながらガイドがいろんな話をしてくれる。何故ガザではハマスが支持されるのか、水の使用量は占領によって厳しく制限されていて、夏にはイスラエル人がプールに水を張るためにパレスチナが余計に水不足に見舞われる話、トランプが「難民」の定義を捻じ曲げて「これで難民問題は解決した」と言い放ったこと、ゲートにペイントするパレスチナ人にイスラエル兵が上から汚水を振りかける話etc…。

 

壁全体に有名アーティストや地元住民、観光客による落書きが溢れていて、それぞれに独特の視点とセンスがあり、なんとバンクシーの作品でさえどこかの誰かに別の落書きで上書きされている。この巨大なキャンバスが何のために、誰のためにキャンバスとなっているのかが、皆に共有されていることがよくわかる。

 

難民キャンプには、大きなカギをモチーフにした門から入る。鍵(アラビア語でミフターフ)は国内外のパレスチナ難民にとって重要なキーワードで、「故郷を追われたとき、この状況は一時的なものだと信じて家の鍵を一緒に持って行った」記憶から、今のこのキャンプが本当の家ではないことを次の世代に伝える役割も果たしている。門の近くの壁に大きく刻まれていた ”ナクバ(パレスチナ難民発生の原因となった戦争)からの年数のカウント" が、今の状況が何世代もの期間に渡って続いてきたということを、唐突に気づかせてきた。

 

キャンプの応接担当ガイドの英語がかなり早口で、正直半分ほどしか聞き取れなかったのだけど、それでも興味深い話をキャンプを歩き回りながらたくさん説明してくれた。

 

このキャンプでは、すぐ横に面する壁の上からイスラエル兵が発砲してくることがよくある。ひどいときには、煙幕弾を放って視界を効かなくしたうえでキャンプに向かって散乱銃を打ち込むこともあったらしい。ある日、アメリカ人の観光客団体がツアーで見学に来ていた時に、イスラエル兵がそれに気づかずキャンプへの銃撃を始めた。ツアーガイドは安全を確保したうえで、何も言わず観光客にただその様子を見守らせた。観光客は、明らかに来る前とは何かが彼らの中で変わった様子でツアーを終えたらしい。

 

 

ツアーを終え、ホテルにチェックインした。「本棚に見せかけた隠し扉」を初体験し、その扉のロック解除の際のしょーもないユーモアに大ウケする。バンクシーもしょーもない下ネタ好きなのかな。フルーツティーの香りの漂う、映画のように雰囲気のある部屋に入り、ベッドの上のマッチ箱のような素敵な石鹸とバンクシーからの手紙に大はしゃぎした。ひとりだけど。

 

晩御飯の時間なので、フロントで近くのレストランを聞くと、パンフレットに地図まで描いて懇切丁寧に教えてくれた。忙しいだろうにありがたい。紹介してくれたうちで一番近い、評判の良いアラブ料理レストランに行ってみることにした。

 

そのレストランは大衆食堂のような外観をしながら、ちょっと西岸地区の他の都市では見ないような高級感に満ちた雰囲気をしている。実際に他のレストランよりも小量な料理に高価な値段がついていて、味もそれなりに見合ったものになっている。雰囲気にのまれ、ちょっと調子に乗ってグラスのビールを頼んだら、しばらく飲酒していなかったせいか半分でフラフラの真っ赤っ赤になってしまった。

店にスーツのおじさん数人と、めちゃくちゃ綺麗な色のセクシーなドレスに身を包んだめちゃくちゃ綺麗なお姉さんたちが入ってきて、何やら祝いの席っぽいものが始まった。そのドレスが彼女たちの一張羅であることは間違いないけれど、それでもなかなかの上流階級(言い回しが古い)であることはうかがえる。あとで店主に聞くと、やはり結婚披露宴のようなものだということだった。「おめでとうございますって伝えといて」って言えばよかったかな。そんなキザなことはできないか。

 

酔い冷ましに少しぶらつく。

ここベツレヘムは西岸地区の中でも特色の強い観光都市で、人々も街もいろんな意味で冷めていて、歩いていても他の都市ほど好奇の目で見られない。観光客向けに物価も比較的高め。

 

小さなジェラート屋に入り、兄弟らしい店主の二人のおじいさんとちょっと話をした。エルサレム出身で、自分のアイデンティティイスラエルでもパレスチナでもなくエルサレムだと言う。実に面白い。西岸地区に店を出したのは単純に物価が安く、生活しやすいからだそうだ。

 

 

ホテルに戻ると、ロビーの一角で地元のギターとクラリネット奏者が小さなライブをやっていた。良い音色。まだ寝るような時間でもなかったので、ラウンジのバーでアラクをもらって聴いていくことにした。アラクはアラブのポピュラーなお酒で、ミントのような爽やかで強烈な風味がする。シーシャ(水煙草)ととてもよく合うのを、日本で教授から教えてもらっていた。このホテルにシーシャは無かったけど。

ちょっとキツイな、と思ってバーテンダーにラベルを確認してもらうと、地元の高級なアラクで度数は65らしい。皆さん大体ロックか水割りで飲まれますよ、とニッコリ言われたので、意地になってストレートで最後まで飲んでしまった。バカだなあ。

ふらっと入ってきた抜群の雰囲気のアラブ人女性に、少しの間目を奪われた。たぶん地元民なんだと思うけど、ここの女性は彫りが深く、顔立ちが整っている上にメイクもかなり強気なので、その上ヒジャーブをつけていない西洋風の格好をしているというだけで、地上最強かと思うほどかっこいい人が時々いる。

 

 

コーヒーを飲みながら廊下で一日の記録をつけていると、通りがかりの酔っぱらいのおじさんに指をさされて「夕方の5時にも君を見たぞ!」と言われた。「また会ったね、ハッハッハ!」と返しておいた。知らねえよ。

 

 

 

 

 

 

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もうすでに、この記事を書き始めてから2か月くらい経ってしまった。ヘブライ大学のセメスターも終わり、今はNGOインターンをしていて、結局毎日仕事もやることもたくさんある。西岸の旅編はまだこれで半分ほどだけど、残りは帰国してから書くことにしよう。それまで、いろんな感動を覚えていられればいいけど。

 

 

 

 

偽善と呼ばれるものについて

大学でパレスチナ問題を勉強していて、イスラエルに留学することになってるんです、と言うと、大抵、日常に馴染みのない武力衝突や遠く離れたアラブ世界に興味を持って、色々と尋ねてきてくれる。

「どうしてそれに興味を持ったの?」「紛争とかって今どんな感じなの?」「あの対立は終わる見込みあるの?」…

 

あるタイミングで、「で、その研究が終わったらどうするの?」と聞かれることがある。

NGOとかに所属して、解決のために活動していきたいと思っています。

その答えで、反応がそれまでと少し変わる。ちょっと驚いた顔をする人や、反対に軽く眉をひそめる人も。それまで前提にしていたことが違った、という反応だ。

 

 

幼稚園から始まる教育課程の中で、「将来の夢」を繰り返し書かされ尋ねられ、僕らは自然と「なりたいもの」を中心に人生を見通すようになる。それは見える世界の範囲の拡大にともに拡がり、見ている世界の解像度の向上によって狭まっていく。最終的には昨今の厳しい就職活動の中で、自分の「スキ」をどれだけ残せるかに食らいついて闘うのだろう。あるいは就職後も、自分の「スキ」に従って職業を飛び越えていくのかもしれない。

 

 

そして僕は、その流れを最初から外れているように見えるらしい。

 

 

 

社会奉仕、というのだろうか、総称して何と呼んだらいいのかわからない。

紛争調停、人権回復、環境保全、医療支援、生活向上、平和、平等…。そういう言葉で表されるものの方を向いて、NGOなんかで活動している人のこと。

 

全然十分じゃないな。言葉ですべて含めるのは難しい。

自分の人生設計や職業選択を、好きや憧れではなく、なんからの目的と使命に基づいて考えてるように見える人、と言えばいいだろうか。

 

 

自分の設定した社会課題にアプローチする、というような、よく言われる起業家精神のようなものとは、ややこしいのでここでは別物とさせてもらいたい。

 

 

 

こういう人のことが、そうでない人にはよく理解できないようだ。

 

 

紛争で苦しんでいる人がいるのは知っている。十分な教育を受けられない子供たちもテレビで見た。環境問題も確かに大変なことになっていると思う。

 

それでも、なぜあなたがそれに従事するのかわからない。本当は自分のやりたいことだってあるだろう。自分自身の好きや憧れや幸せをないがしろにして、「誰かのためにはたらく」「何かのために生きる」、そういう姿勢が、どこから来るのか全然わからない。

 

 

その見えない動機を、偽善と呼ぶ人もいる。

 

 

幸いなことに、僕が仲良くしている中には、それを偽善だという人はあまりいない。偽善そのものよりも害の大きい偽善という言葉を、軽率に口にしない人々の中に僕はいる。もしかしたら、僕のことをよく知っているから偽善だと思わないだけかもしれないけど。

 

それでも彼らも同じように、少し不思議そうな顔をする。その生き方の「正しさ」に何も文句をつけられなかったとしても、あなたがなぜそれを決められたのかはやっぱりわからない。正確にいえば、「本心から望んでそれを選択する人格」に実感が持てないんじゃないか、と思う。

 

 

 

質問を受けて、その動機のいくつかを書き出してみることにした。

 

どうかわかっておいてほしいのは、こんなものは所詮僕の感覚と経験による一意見でしかないということ。世界中で社会奉仕活動に従事している人たちには、全く違うモチベーションで活動している人もたくさんいるだろう。僕がここで挙げるものを誰かにあてはめようとするのには、どうか慎重になってほしい。

 

僕がこの記事を書くのは、社会奉仕活動に従事する人々や、誰かや何かのために身を捧げる生き方が、やっぱりどうしても理解できない、偽善なんじゃないかと思ってしまう人に向けて、例えば彼らはこういう感覚を以てその生き方を選んだんですよ、というような、その理屈の中身を少しだけ見てもらおうとする試みだ。

これで何かが誰かに理解されたり納得されるとは思わない。それでも、何も見えなかったものをちょっとだけでも分解してみることで、少しは「偽善」なんかよりも解像度の高い言葉でそれを考えてもらうことができるといいな、と思う。

 

あと、僕が政治社会問題に関わっているのでそっち寄りの表現が多くなるけど、広い意味の環境問題にも同じように言えると思ってほしい。

 

 

 さて、

 

彼らの動機、モチベーション、理由、「それ」には、僕が知っている限り3つの種類がある。

 

A.その活動や生き方そのものに魅力を感じている

B.ポリティカル・コレクトネスに従う生き方を選択している

C.強迫観念的な症状がある

 

 

前提として、「困っている人がいるから助けなければいけない」という規範はまず全員が持っているとしたい。「誰かが困ってようが知らねぇよ俺には関係ないし」と堂々と言えてしまう人はここでは扱いきれない。

「正しさ」の規範を持っていることと、行動を起こしたり自分の人生の選択に絡めたりすることは全く別の話で、「どうして実際にやれるのか」というところにタイプの違いが現れる。

 

 

一つずつタイプを見ていこう。

 

 

Aは、その従事する活動や生き方から何らかの報酬を得ている人のことだ。

たとえば子供たちの笑顔。たとえば自分が誰かの役に立っているという直接的な実感。たとえば仲間と一緒に具体的な何かを成し遂げる達成感。たとえば一般的な会社勤めからの解放。 

カンボジアに学校を建てて子供たちを笑顔にする!みたいな学生団体を例に挙げれば、何となくイメージはつくだろうか。

 

これらの報酬はたいてい、問題解決のプロセスの中では副次的とされるものだが、彼らにとってはそれが最も重要なモチベーションになっている。そのことは、問題の根本解決という観点から見たときに必ずしも本質的とは言えない活動内容に、しばしば彼らがこだわって従事しようとすることに見て取れる。(ここで僕に彼らを批判する意図はないことに注意してもらいたい。詳しくは後述する。)

 

いわゆる「やりがい」を動力源としている彼らのタイプは、他の職業と同じように「生業の選択肢」のひとつとしてその生き方を選択した、とも言える。

 

 

 

Bは、「あらゆる問題に連帯意識をもって一人一人が行動を起こすべきだ」というようなポリティカル・コレクトネスが内在している人のこと。内在している、というのはフェアな言い方ではないかもしれない。実際には、”正しい”人間であろうとするはたらきが行動原理になっている人のことだ。

 

コレクトネスが自然に行動原理に組み込まれた経緯や理由はそれぞれで、それによって自己肯定感を保っているというのが一番多いかな、と個人的には思っている。そしてこのBのタイプに特徴的なのが、その経緯に無自覚あるいはわからないという人が一定数いることだ。彼らにとってポリティカル・コレクトネスに準ずるのは当然のことで、社会人としての義務であり、そうでない人が全員「故意にルール違反をしている」ように見えてしまうこともしばしば起こる。しかし実際には彼らの生育環境がコレクトネスへの批准を”習慣づけた”のであり(特に受けた教育の質と量が大きく影響する)、彼らのように「たまたま」自然に正しさに従えるようになるのはごく限られた人々であるということは、受け入れられにくいけどやっぱり分かっておいた方が良い。

 

一方で、このBのタイプの人が、問題の根本解決に最も効果的に貢献し得ると僕は思っている。何でもそうだけど、問題の理解と解決への道筋の模索は本当に深い知識と考察が必要で、自分自身へのリターンや貢献しているという実感からはるかに遠く離れたところで行動のための意思決定をしなければいけない。自分の生活をそのプロセスに委ねられてしまう覚悟とモチベーションは、やはり「正しさの追求」を以てでないと難しいように思う。

 

また、このBはflexibilityの点で本人にとっても都合の良い感覚だ。自他の区別がしっかりついてさえいれば、活動に携わる時期、程度、長さ、対象を自分の意思で選択することができる。夢だった外資系企業でのキャリアが一段落ついたから1年間途上国の教育支援に参加してくる、とか、アーティストとしての活動で得た収入の一部を環境保全活動に寄付する、なんて選択ができるのも、このタイプの人ならではだろう。

 

 

 

最後のCが、一番厄介で一番興味深い。そして一番説明が難しい。

 

例えば僕の場合。

全然正確には覚えていないのだけど、たぶん小学校低学年ぐらいの時に、テレビのNHK特集かなにかでどこかの戦場となった街を見た。頭から血を流した少女が半壊したビルの横を走り抜けて必死に逃げる映像を観て、初めて「そういう世界」があることを知った。そしてその時から僕は、自分の将来的な幸せを考えられなくなった。

もちろん日常的には、美味しいものを食べて幸せとか、好きな人たちと遊んでて楽しいとか、そういうことは普通にあるし普通に感じる。ただ、将来の夢とか、人生設計とか、そういうことを自分のスキなものややりたいことに基づいて考えることができなくなった。自分の人生を、自分の幸せを実現するものだと思えなくなった。

その始まりの体験を忘れてしまっても、僕は自分の「将来やりたいこと」が想像できないままだった。やることはもう決められている気がして。何度か口にしていた旅行家や起業家というカタチも、「それ」に関わる方法を模索してる感じ。国連職員になりたいと言ったこともあった。

 

大学に入るまでに、自分の中のその感覚が何なのだろうかと、ずっと言語化を試みていた。いくつか形になったものは以下の通り。

「自分の幸せを実現している状態がa、自分の努力と運で幸せを実現できる状態がb、幸せのチャンスも自由への道も与えられていない状態をcとする。世界に未だcである人が存在する以上、bである自分がaを目指すことは許されていない。」

「助けを求める人々や解決を待つ問題があることを知っていながら、自分のやりたいことを基準に行動を選択するのは、彼らを無視する自己中心的な考えだ。」

「自分の中に(自分の知る世界中の人)が内在していて、彼らの一人でも幸せを奪われているならすなわち自分も幸せにはなれない。」

それぞれが、僕の感覚を部分的に言い表している感じ。ちなみに一つ目のやつは、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に似たようなセリフがあるらしい。(「世界の全員がこの汽車に乗れないのなら、僕もこの汽車には乗れない」というやつ。ご存知の方は教えてください)

 

そして僕は、僕の理性と基本的人権に関する知識のすべてを以て、上記の一切が間違っていると断言できる。助けを求める人が目の前にいたとしても、僕らはそれを無視して自分の進みたい方に歩いていく権利がある。あるいは、最低限の適当な補助をしてあとは放っておく方法もある。そして、それらを気に病む必要も全くない。(抽象的な話をしているので隠避罪的なのは置いといてください)

それでも僕の中の感覚は、彼がひとりで歩けるようになる前に僕が進み始めることを許さない。たとえ理性でこんなの間違っていると理解していても、死ぬときに自分の人生を許せなくなることがわかっているのだ。それ故に僕は、これを「症状」と呼ぶ。

 

一方で、「症状」と呼ぶからには、この感覚には人によって程度がある。僕が出会った中には、「自分のスキなこともあるんだけど、その前にやることがあるよねって気がするんだよね」と、夏休みの宿題のように捉えている人もいた。幸いなことに僕も、Bのタイプも(環境のおかげで)少し持っていることもあり、自分の身を奉仕活動に捧げることには抵抗がないというか諦めがついていて、この感覚はモチベーションの維持とブーストに利用するぐらいになっている。症状の程度というよりは、付き合い方や乗りこなし具合といった感じだろうか。悲惨なのは本当にやりたいことが他にある場合で、自分のスキややりたいこととそれへの道があるにもかかわらず自分自身がそれを許さないという葛藤を、なんとか押し流して納得させなければいけない(多くの場合自分のやりたいことの方を諦める)。

 

ちなみに、この強迫観念は他人にあてはめられることはない。「苦しむ人を助けないことは罪だ」と思っていたとしても、それはあくまで自分自身にのみ課せられた責任で、「あの人は手を差し伸べていないから許されない」とはならない。多くの人は自分がこの感覚に”囚われている”のだと自覚している。

 

もう一つ、このCのタイプには、対象が固定されることがあるという特徴がある。何故だかわからないが、まあこのタイプは総じて不条理なのだけれど、動物の赤ちゃんの「刷り込み」のように、自分に課せられた(と感じる)責任の対象が自分の意思と関係なく固定されることがあるのだ。自分の思う諸事象の相対的な重大さや逼迫性とも関係なく。もちろんこれにも程度があって、いくつかの選択肢を許されている人や、対象の制限が全くない人もいる。ただ、自分で対象を選ぶことさえできない人もいる、ということは知っておいてほしい。

 

 

 

感じた人もいるかもしれないが、BとCはけっこう似ているし判別しにくい。Cの中でも症状の軽い人はBとかなり近い感覚を持っていることもある。

だがそもそも、一人の人が一つのタイプだけに属しているわけではない。多くの人がいくつかのタイプを持っているし、大抵の人は他人に感謝されたらやる気が湧くだろう。ただ、きっかけや根本になるモチベーションは何か、という質問に意味があるだけかもしれない。

 

それに、他のモチベーションだってあると思う。僕は、大学の講義でパレスチナの実情と実際に起きた出来事の記事を読み、そのあとの昼休みを大講堂の隅で一人で泣いていたことがある。こんな現実があることを知ったまま、この世界で幸せになんかなれるわけがない、と思った。これは、Cの強迫観念とは別の場所にある、僕自身の主体的なモチベーションだ。

 

 

 

個人的に考えたこととして、Cの感覚は自分の人生そのものに目的が与えられている、つまり人生は組み立てるのではなく外的な何かのために消費するものというアイデアで、これは逆説的に自分自身の人生に対する責任を放棄できるものだという解釈があるのですが、

本旨に関係ないし長くなるのでここでは書かないことにします。

 

 

 

 

 

 

 

そして、偽善と呼ばれるものについて。

この記事で一番書きたかったこと。

 

まず、これは前提として当然のことと思ってほしいのですが、完全な善意というものは概念でしかありません。善いことをするのは良いことだ、ということは知っていて、理解はしていても、それを実装するには、(実装というだけあって)自分自身に引っかけられる利益という土台が無くてはいけません。

それはもしかしたら「善いことしてる自分が好き」という自己肯定感かもしれないし、相手からの感謝が嬉しいのかもしれない。周りからの評価を期待している人もいれば、実際に何らかの見返りを求めている人もいるでしょう。あの世での救済のためという信心深い人や、Cのように義務感を持っている人もいるかもしれませんね。

上にも書きましたが、善い行動が染みついているような人も、これらが習慣化したものあるいは環境が植え付けてくれたものがほとんどなので、「私は完全な善意を持っている」と優位に立てるものではありません。

 

人によっては、これらのどこかに線を引いて、「狙っているものがあからさまだからここからは偽善」などと言うのかもしれません。多かれ少なかれ自分自身に結び付けている以上、本質的にはみな同じだと僕は思いますが。

 

そして、最も大事なことは、

 

動機としての善の質よりも結果としての善の方がはるかに重要だ

 

ということです。

 

正確に言うと、質の高い善意が結果としての善を生まなかったらそれは再考の必要があるけれど、結果としての善は必ずしも質の高い善意を必要としない、という理解が大切なのです。

ここから論理的に、偽善的な善意が結果としての善を阻害するとは言えない、とも言えます。

 

基本的に、結果としての善を確実に高める唯一の手段は、深く深く知ることです。しかし、誰よりも詳しくなった専門家でも、良かれと思った行動が事態を悪化させてしまうことはあるものです。ましてや善意の質のようなものがその行動の結果を左右するかどうかなど、確率論でしかありません。

 

そもそも個人が善いことをする義務なんてないし、それぞれが各々好き勝手に振る舞い生きる権利があります。それでも何らか自分の利益に結びつけて、善いことをしようとするならば、その行為は決して偽善と非難されてよいものではないと思うのです。

 

この記事を書いているときに、たまたまアイルランドのロックバンドU2が13年振りに来日公演を行い、その中で社会問題についての言及と提起があったと聞きました。そして、U2がプライベートジェット(環境へは悪影響)を利用していることを引き合いに出し、彼らのパフォーマンスを偽善的だと非難する声があったとも聞きました。(聞いただけです。僕自身で確認はしていません。ただ例として、もしあったのだとすれば)

僕らは、U2にプライベートジェットの利用を止めるように求めるべきであり(セキュリティなどの問題もあるのでしょうがそれでも訴えることに意義はあります)、彼らの社会問題へのアプローチをその文脈で非難すべきではありません。

普段道端に煙草を捨てる人がサッカー観戦後に客席のゴミ拾いをしていたとして、僕らがすべきはポイ捨てへの注意であり、ゴミ拾いを偽善だと言うことではないのです。

 

この記事の前半の大きなテーマですが、そもそも善なる行為に身を捧げようという人はほんの一握りしかいません。世界の様々な人権問題から、すぐそこの近所の衛生管理まで、社会制度と共に人々の「ちょっと良いことした気になろう」というインセンティブが、大きな集合としての善を支えています。この中にいて最も有害なのは、動機としての善意の質にこだわり、結果としての善の生産を阻害してしまうことではないでしょうか。あまりにも利己的な見返りを求められたら「知らんわ」と一蹴すればよいだけの話なのです。

 

人々のそうしたインセンティブを利用した悪質なビジネスが蔓延っていることは確かですし、私たちが注意して闘わなければいけない相手のひとつでもあります。しかしそれに対抗し得るのは確実で深い知識であり、善意の質ではありません。

 

 

もう一つ、前半のAの説明のところで保留にした件ですが、問題の根本解決に本質的とは言えない活動にも、重要な意味があります。

支援、というか問題へのアプローチには、問題の根本解決を目的とするものと、状況の悪化を防ぐための継続的な応急処置とがあります。一見問題の解決に貢献していないように思える活動が、現状がこれ以上悪化するのをギリギリのところで間に合わせ続けているという例は、様々な場所で見られるものです。それがたとえ「子供たちの笑顔」を動機にしていたとしても…、というのは上で書いた通りです。

 

 

 

 

 

なぜか途中から文体が変わっていましたが。

 

質問された以上のことを書きすぎてしまったかな。とりあえず、善的な心の働きについて現時点で僕が思っていることは、以上の通りです。

 

 

個人的には、良いことしてみようかな、と動いてみるのも、良くないことしてないかな、と自分を振り返ってみるのも、好きな方からでいいと思います、僕は。

 

あなたが今良いことをしようと思ったその気持ちは、誰にも非難されるものじゃない。

盗み殺しをはたらいた後にクモを一匹踏まないでおくことも、良いことらしいですし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西岸地区、6日間  二日目

 初めての、ラマッラーでの目覚め。ホステルで目覚ましのアラームをかけることをなんとなく遠慮して、目が覚めたときに起床でいいや、ってことにしていた。7時半。まずまず。

 

 ルーフトップでフリーの朝ごはん。パンの切れ端に、ジャムやオリーブオイル、ザタルをつけて食べる。このザタルという調味料はパレスチナではすごくポピュラーで、日本でもパレスチナ出身の知り合いの人にごちそうしてもらったことがある。慣れるとクセになる味。それと、これもフリーの紅茶を、レモングラスを噛みながら。なかなか良い朝食。

 

 宿泊客と話していると、ヘブロンへの行き方を教えてくれた。やっぱり西岸地区内の長距離移動はバスが一番良いようだ。

 

 

 アラファトミュージアムにもう一度行っておきたかったので、街をちょっとぶらついてからミュージアムに向かう。パン屋でも開いてたら追加で朝食を買おうと思っていたけど、朝9時過ぎの街はまだ全然何も開いていない。そのせいで、ミュージアムのオープン時刻よりかなり早く着いてしまった。仕方がないので、その辺の住宅街を散策してみる。パレスチナはいつも本当に、バカみたいに天気が良くて、群青の空と家々の白いブロックと、庭に植わってるブドウの樹が綺麗なコントラストでよく映える。

 

 そうこうしているうちにめちゃくちゃトイレに行きたくなって、ミュージアムの開館と同時に駆け込んだ。この白い大きな建造物も、朝の強い光の中ではさらに輝いて見える。昨日よりはゆっくり見られるかと思っていたけど、今度はホステルのチェックアウトの時間に追われ、結局昨日よりも滞在時間は短く。メインコーナーのパネルはあまりに多くて、二日合わせても1割も読めなかった。

 

 ミュージアムを出るとき、欧米かららしい団体のツアー客と入れ違った。パレスチナに団体ツアーで来るって、どんな感じなんだろう。ガイドさんは、どの事実にも政治的解釈が絡むこのややこしい現状を、どう説明するんだろう。

 

 

 また20分歩いてホステルまで戻る。もう昼前なのに、やっぱり町は静かで、店は全然開いてない。唯一、このあたりで人気らしいジュース屋が開いていたので、ちょっと悩んでバナナジュースを買った。ギリギリジュースと呼べるぐらいの、もったりとした濃厚なバナナ感と舌ざわり。ちょっと実家を思い出した。日本人というと店員さんはとても喜んで、めちゃくちゃ笑顔で色々話してくれた。

 

 

 チェックアウトを済ませ、また道行く人々に聞きまくってバスステーションにたどり着き、ヘブロン行きの乗り合いバスに乗り込む。ヘブロンまで砂漠の中のハイウェイを走るのだけど、パレスチナの乗り合いバスはエアコンつけないからずっと窓が開いてて、その風が後部座席の僕にもろに直撃してて、ヘブロンまでの道中ずっと顔が歪むぐらいの暴風に晒されてたもんだから、到着するころには顔の皮膚がカピカピになっていた。勘弁してくれ。

 

 僕の初心者ぶりは見て分かったようで、前に座っていたムスリマのお姉さんが、バスを降りるときに話しかけてくれて、ホステルを探すのを手伝ってくれた。ヘブロンの大きなホテルのフロントで良いホステルがないか聞くと、ぼくのスマホにメモ書きまでしてくれた。お姉さんもホテルマンもめちゃくちゃ親切で、本当に助かった。

 

 

 タクシーの運ちゃんに教えてもらって、ホステルが入っているというビルに恐る恐る入ってみたけど、照明もついてないし誰もいない。と、後ろから小さな男の子が走ってきて、「ホステル?ウェルカム!」と言う。どう見ても未就学児の年齢。彼は僕をエレベーターまで引っ張っていって3階のホステルに案内し、誰もいないフロントに座ると僕にパスポートを出させ、チェックインの手続きを済ませて、ホステルの中を案内してくれた。信じられないことに、どうやら彼はホステルの接客業務をすべて一人で任されているようだ。しかもすべて英語で。どう見ても小学校に上がる前の子どもが。すごい。

 

 案内された自分のベッドに荷物を置いて一息ついていると、地元の人らしい男性が入ってきた。この町のことを教えてくれるという。ホステルのオーナーかと思ったけどそうではないらしく、でも事務所から資料やらパソコンやら持ち出してきてるから、たぶんホステルと提携してるツアーガイドか何かなんだろう。

 

 彼が教えてくれたのは、この町にある占領のこと。ここヘブロンには、有名なシュハダストリートがある。かつては街のメインストリートで、多くのパレスチナ人が暮らし、往来し、栄えていたその大通りを、イスラエルは入植地の一部として占領した。もともとシュハダストリートに住んでいたパレスチナ人は現在番号によって出入りを管理され、それ以外のパレスチナ人は一切立ち入ることができない。イスラエルはこの封鎖に明確な理由付けをしておらず、「命令だから」の一点張りでパレスチナ人を締め出す様子がYouTube動画でもあがっている、のを見せてくれたのだけど、自分では見つけられなかった。

 

 具体的に占領の様子を見てみたいなら案内する、と言われ、もちろんそれが目的の旅だったのでよろしくお願いした。

 

 

 シュハダストリートの入り口は、ホステルの前の通りを下ってすぐのところだった。わりと幅のある道路が黒いフェンスの頑強なゲートで塞がれ、武装したイスラエル兵が常駐している。フェンスの上にはこちら側を向いた監視カメラがふたつ。

 

 その一本となりにあるのが、旧市街に繋がる大通りだ。トラックが2台すれ違えるぐらいの遊歩道の両側に4~5階建てのアパートが並び、その下にたくさんの露店が軒を連ねて大きな市場になっている。人通りも多く、地元の人々で賑わう市場。こういう喧騒の中を歩くのはとても楽しい。だがこの通りもまた、占領の影響に直接晒されている。

 

 市場から上を見上げると、通りの両側の建物の3階あたりから横向きにフェンスが伸びて中央で空を閉じ、アーケードのように市場全体の頭上を覆っている。かつて、この通り沿いのアパートにはパレスチナ人たちが住んでいた。イスラエル人入植者がシュハダ通りを封鎖した後、このアパートからもパレスチナ人は追い出され、代わりにイスラエル人が住むようになったらしい。そして、上階に住むイスラエル人が窓から生活ゴミを市場に向かって投げ捨てるのだという。屋根のようなこのフェンスは、頭上から突然降ってくるゴミから市場の人々を守るためなんだそうだ。見ると、確かにフェンスの上にはゴミが散らばっていた。

 

 そして、パレスチナ人とイスラエル人の活動範囲が文字通りとなり合ったこの市場では、イスラエル側の警戒も厳しい。両側の建物からはいくつもの監視カメラが通りを見下ろし、屋上にはイスラエル武装兵が直接市場を狙える待機所が各所に設けられている。ガイドのおじさんはその一つ一つに立ち止まり、指さして教えてくれた。

 

 旧市街に入る。ここはエルサレムの旧市街とはまた全然違う。石壁のような土壁のようなのが足元から頭上までトンネルをつくっていて、所々で分かれながら、ずっと先まで続いていく。まるで洞窟の中を歩いているみたいだ。そして、ところどころに脇道が、さらに下へと延びている。この旧市街に千数百年前から人々が店を構え、行き交っていたのかと思うと、歴史にそれほど詳しくない僕でも少しワクワクした。

 

 しかし、今僕が歩く旧市街は、お世辞にも活気があるとは言い難い。わずかに点在する露店に訪れる客もほとんどいないくらい、人通りも少ない。数十年前までこの旧市街は、その枝分かれした通路が街の様々な場所に通じ、今よりずっと広い範囲から人々が直接アクセスできたようで、多くの人が往来する大きな市場がここにも栄えていたらしい。今、その通りのいくつかが、明らかに人為的な形で遮断されている。ある場所では鉄の扉が太い鎖で固定され、ある場所ではセメントのようなもので文字通り塞がれていた。イスラエル人入植者が、入植地に繋がる、あるいは近づく恐れのある通りをすべて通れないようにしてしまったのだ。アクセスの悪くなった旧市街を通行する人は激減し、千数百年栄えたこの場所は一気に寂れてしまった。「この向こう側に、祖父と親父のレストランがあったんだ。俺もそれを継ぐつもりだった。」と、固く閉ざされた鉄の扉に手を当てて、ガイドのおじさんは言っていた。

 

 旧市街を歩きながら、一度煙草を勧められた。今はいいです、と断ったけど。彼は金曜日にだけ煙草を吸うらしい。そういうのいいな、と思った。

 

 旧市街を通り抜けた先に、というか旧市街がここにたどり着く、という感じなんだけど、ヘブロンの名所、アブラハムモスクがある。その規模から歴史から桁違いなこのモスクもまた、その中にユダヤの聖地も含まれているという理由で、一度イスラエルに占領され、アラブ人は締め出された。そして再び開放された時には、内部が壁で二つに区切られていた。片方はイスラムのモスク、片方はユダヤシナゴーグというわけだ。現在、パレスチナ人はもちろんシナゴーグ側に入ることはできず、モスク側に出入りする際にも、アブラハムモスク全体を管理しているイスラエル兵に市民カードを提示しなければならない。

 

 この日は金曜日だったのでモスク側に入るのは明日にして、シナゴーグ側を見ることにした。パレスチナ人のガイドのおじさんは、下で待っていてくれるらしい。おじさんと一旦別れ、ユダヤ人と観光客しかいないシナゴーグの敷地にドキドキしながら入る。

 

 それにしてもデカい。歴史の中でモスクや教会が様々な宗教の祈祷所に移り変わっていくのは中東ではよくある話だから、アブラハムモスクも元々が何だったのかは実際に調べてみないと分からないけど、これはまるで城だ。強大な石を積み上げた城壁をそのてっぺんまで見上げようとすると、首をいわしそうになる。本当に、モスクともシナゴーグとも、教会とも思えないようなスケールと堅固さだ。そのわりに、大きな庭を歩いて階段を上り、中に入ると拍子抜けするほど普通のシナゴーグ。聖書の並ぶ書斎を通り抜けた先の祈祷場では、男女別に仕切られた空間にプラスチックの椅子が並べられていた。そして肝心の聖地、「ヤコブの墓」は…… 柵で囲まれ、シナゴーグ側からもモスク側からも触れられないようになっていた。

 

 シナゴーグを出て、庭の猫たちとちょっと遊んでからガイドのおじさんと合流。アブラハムモスクを境目に、旧市街と反対側はイスラエルの入植地になっている。シュハダストリートにもつながる入植地だ。中を見てくるといい、と言われた。おじさんはもちろん入れないので、ホステルの前のあのゲートのところで落ち合おう、というわけだ。初めて、イスラエルの入植地に入ってみることにした。

 

 倉庫のようなものが並ぶだだっ広い道路の途中から入植地になるのだけど、そこには境界線もフェンスも何もない。ただ、起点となる道路の端にあるチェックポイントにイスラエル武装兵が常駐しているだけだ。乾いた風が砂埃を巻き上げる通りには車ひとつ、人の一人もいなくて、あまりにも殺風景で、それだけで少し緊張してしまった。

 

 チェックポイントでパスポートの提示を求められてちょっと焦る。パスポートなんてホステルに置いてきてたし。でもヘブライ大学の学生証を見せたら、ちょっとトランシーバーでやり取りして通してくれた。

 倉庫の並びを通り抜け、車の走っていないジャンクションを歩いて渡り、住宅街に入っても全然人がいない。金曜日の昼間だからまだシャバットにも入っていないはずなのに、真昼間の通りを歩いている人間が僕だけというのは、どうも気味の悪い悪夢を見ているようだ。たまに、左右の家々のいくつかから子供の声が聞こえてくる。

 

 記念館のような建物に、この地の歴史がいくつか書き出されていた。聖書時代から、20世紀後半まで。ユダヤにとってもこのヘブロンは、聖書にも記載のある聖なる土地だ。当然、彼らにとっての物語がある。

 

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 誰にも合わないまま住宅街を通り過ぎ、あのゲートを抜けた。ゲートの向こうにまだガイドのおじさんはいなかったので、ずっとそこに座ってるパレスチナの警官だといういかついおっさんたちと少し話した。僕は、ずっと気になっていた、入植地の中で見たあるものについておっさんたちに聞いてみることにした。「入植地の中で、すごく大きな墓地を見たんですよ。所々壊れていて、かなり古い墓地のように見えたから、いつのものなんだろうと思って。あれは、アラブの墓地ですか?それともユダヤのなんですか?」「両方だよ。混じってる、というか一緒になってる」 かろうじて聞き取れたアラビア語の言葉に、思わずハッとした。そうか、あれはまだユダヤとアラブとクリスチャンが共存してた時の墓なんだ。あの墓地があのままでまだ存在しているということに、胸が締め付けられるように、少しだけ泣きそうになった。

 

 ガイドのおじさんと無事再会し、交渉の末150シェケル(4500円)払った。わりと取られたけど、あれだけ充実した内容で、ヘブロンに来た目的はあらかた果たせたと言ってもいいほど色々見せてくれたので、損は無いだろう。

 

 

 少しだけヘブロンの山の上の方を散歩してみた。ヘブロンの急坂にへばりつく集落は、エルサレムの旧市街のような洗練された雰囲気も、尾道のような繊細さもなく、ひたすらに荒々しさだけを感じる。あまりに無骨で、どこにも道を示していないから、好奇心だけでどこへでも行ける、って感じ。家の屋根の上で子供たちに追いかけられるとか。遭遇する子供たち全員にかなり濃いめに絡まれたからちょっと困ったけど。坂を上りきったところからは、ヘブロンの街も、イスラエルの入植地もよく見えた。

 

 

 ホステルに戻ると、オーナーが食堂に誘ってくれて、少し話をした。僕がヘブライ大学に通っていて今は西岸地区をまわっていると言うと、それはいい、と彼は言った。両方のストーリーを学ぶことはとても大事だと、我々はシオニズムを憎んでいるがユダヤを憎んでいるのではないと。そんなことを話しながら、ヒマワリの種の食べ方を教わった。世界一ちまちました食べ物だな、と思った。

 

 

 金曜日も日が暮れて、そろそろ店が開く時間だ、と教えてもらったので、夕食を探しに街に出た。旧市街や市場とは反対側、ネオンのひしめく街の繁華街の方へ。

 

 中心の大きな交差点にいくつか出ているコーンとコーヒーの屋台の中に、ちょっと違うのが一つあったので近寄ってみる。見ると、一直線のチュロスを次々と揚げてはパッドに積み上げている。いい匂いがしたので一本買ってみた。一口齧ると、いい感じにカラッと揚がった食感と共に、砂糖のたっぷり溶け込んだめちゃくちゃ甘い油が滴る。それはもうジューシーとかいうレベルではなく、高野豆腐並みに中から噴き出してくる。歩きながら齧ろうものならシャツの前面が油と砂糖でシミだらけになるだろう、というぐらい。極端に甘いもの好きの僕には悪魔的なおやつだ。しかもこれで1本1シェケル(30円)。

 

 先に甘いものを食べてしまったが、ホステルのオーナーに教えてもらったシュワラマ屋を見つけた。人気店のようで、小さな店なのに7~8人が店先で口々に注文している。僕もその人だかりに入ってみたけど、一向に注文を聞かれることなく、後から来た客が次々に注文を叫んで商品を受け取っていく。どうやら自分からガツガツいかないと相手にされない、かなり厳しめのシステムのようだ。僕のすぐ後ろにいたお兄さんが、見かねて店員さんを僕のところに呼んでくれて、何とか僕も注文することができた。ここの人たちは本当にみんな優しい。シュワラマは、イスラエルのように山ほどの肉が入っているわけではないけど、味付けがちょっとタレの強い日本寄りの味で、こっちの方が好きかも、と思いながら頬張った。美味しい。

 

 明日の朝食にと、パン屋で総菜パンと甘いパンをいくつか買い、我慢できなくなって屋台でチュロスをもう一本買い、滴る油と格闘しながらホステルに戻った。

 

 

 ホステルに戻ると、同部屋にドイツから来た学生カップルがいた。自己紹介をして少し喋っていると、チェックインをしてくれた男の子が入ってきて、屋上を見せてくれるという。3人でトコトコついていった先には、資材の散らばる殺風景な屋上。そこから見下ろせる街の様子を解説してくれた後、男の子が下階に戻っていったので、ジャーマンボーイと色々話をした。

 

 お互いがこの町で見たこと、明日の予定、ヨーロッパの空気、今のドイツ人の若者はもうホロコーストを自分自身の罪だと感じていないこと、でも自分たちの民族がそういう歴史を持っていることは背負うべきだと思っていること、彼のひいおじいちゃんはSSだったこと、イスラエルパレスチナの対立は本当にややこしくていまだに理解できないこと。僕は、中国での戦争犯罪を背負っている日本人はホロコーストを背負っているドイツ人ほどはいない、と言った。

 

 あとここでも、日本は今本当に右傾化してるよね、と言われた。実際に日本国民が右傾化しているのかということを必ず聞かれるのだけど、いつも困ってしまう。正直僕も分からない。とにかく、様々な面で断絶が深まっている、ということを、少しずつ例を出しながら話している。

 

 ジャーマンボーイに煙草を勧められた。手巻煙草は初めてで戸惑っていると、妹を連れて戻ってきた男の子が吸い方を教えてくれた。詳しいね、坊や。

 

 

 寒くなってきたので部屋に戻り、この日は少し早めに眠りについた。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西岸地区、6日間  一日目

 ほんとは朝早くに出発しようと思っていたけど、洗濯して乾燥機かけて畳んでしまって、ちょっと遠くのATMまでお金を下ろしに行ってたら、結局昼前になってしまった。僕はいつもこうやって遅刻する。

 

 本当に何も決めてなくて、どうやって西岸地区に入るのかも調べてなかったから、とりあえず向かったバス停でお姉さんに声をかけてもらえてよかった。ヘブライ大学の職員だというお姉さんも僕と同じくラマッラーに行くところだったみたいで、一緒に連れて行ってくれることになった。ありがたい。

 

 ラマッラー直通のバスがあったのだけど、なぜか僕らの待ってたバス停を素通りしてしまった。こういうことはまあ、たまにある。仕方ないので、とりあえずチェックポイントまでのバスに乗ることにした。

 

 車内はやっぱりほとんどアラブ人。街並みも段々アラブ人街になってくる。バス停の名前は聞き逃したけど、このバスはもうグリーンラインの上を超えたんだろうか。そう思っているうちに、壁が見えてきた。

 

 想像していたより低い。たぶん、4メートルもないぐらい。落書きひとつない、綺麗なコンクリートの壁。どこにでもある塀みたいだ。これが、「こちら側」から見た壁。

 

 西岸地区はその周囲をぐるっと壁とフェンスに囲まれ、通過できるのはところどころに設けられたチャックポイントからのみだ。チェックポイントでは武装したイスラエル兵が、特にパレスチナ側からイスラエルに入るパレスチナ人を念入りにチャックする。観光客の僕らもイスラエルに入るときにはパスポートとビザをチェックされるが、パレスチナ人の待たされる時間と労力は僕等の比ではない。

 

 到着したチェックポイントは、大きくてがらんとしたバスターミナルのよう。バスから降りてゲートを通り、お姉さんに連れられて壁の向こう側のロータリーへ歩いて向かう。オレンジ色の乗り合いバスでラマッラーの市街地まで行くらしい。この後何度も利用することになるこの乗り合いバスは、要するに三列シートのワンボックスカーで、乗客が7人集まるまで出発しない。今回は僕らが最後の乗客だったみたいで、ラッキーだった。

 

 狭い車内から壁を眺める。外側から見た壁があんなに低かった理由が分かった。向こう側の方が地面が高かったんだ。もともとか、壁を建てた後に土を盛ったりしたんだろうか。「こちら側」からなら、壁の内側からなら、その高さがよくわかる。延々と続く8メートルの壁には、所狭しとスプレーでの落書きがあふれている。ほとんどが壁を罵倒し、占領に中指を立て、自由を主張する内容だ。時には、思わず笑ってしまうハイセンスなユーモアと共に。あんな高いところにあんなデカい落書きを、本当にどうやって描いたんだろう。

 

 ラマッラーの繁華街に着いた。乗り合いバスを降り、お姉さんにお礼を言って別れる。これから泊まるところを探すと言うと、hostel in Ramallahというホステルが良いと教えてくれた。

 

 ラマッラーは西岸地区のハブみたいな都市で、イスラエルから西岸地区に入るときには玄関口にもなる街だ。タクシーやバスや自転車がごちゃごちゃに行き交う二車線道路の両側に、肉屋やケバブ屋や服屋やジュエリーショップが数百メートルにわたって並んでいる。少し横に逸れると、大きな野菜のマーケットを見つけた。どこもかしこも人で溢れていて、とても賑やか。それでも、真ん中にデンと構えるモスクの周りだけは厳かな雰囲気が漂っている。

 

 お腹がすいたので、目の前のパン屋に入ってみた。クッキーのような小さなパンたちが、パレットにきれいに並べられている。種類も豊富で色とりどり。どうやら紙袋に好きなのを詰める量り売りのようなので、特に甘そうなのを7,8個選んだら、なんと5シェケル(150円)。店員のお姉さんが、あまり喋らないけどずっとにこにこして接客してくれたのもよかった。

 

 片手に持ったパンを食べながら街を歩く。好きな味。すれ違う人が時々振り返って、welcome!と声をかけてくれる。

 

 

 実は西岸地区に入ってまず、散髪がしたかった。ここで髪を切ってもらうために、留学開始からずっと伸ばしていたし。だから、ぶらぶら歩きまわりながらも目はゆるく床屋を探していた。

 

 道中おじさんと話し込んだり、女子中学生たちに囲まれたりしながら、地元の人に教えてもらってなんとか床屋を見つけた。おじいさんが一人でやっている、小さな小さな床屋。何故か照明もついていない。

 バーバーチェアに座ると、「お兄さんは、ゲイなのかい?」と最初に聞かれた。どうやら、伸び放題の僕の髪を見てそういうことだと思ったようだ。アラブの男性の頭は皆短く刈り込まれている。「いや、ゲイではないですよ」「そうかい、あんまり男に見えなかったもんだから」「じゃあ、男にしてください」それがオーダーになった。

 大胆に短く刈り込んで、仕上げは丁寧に整えてくれて、20シェケル(600円)。

 

 

 頭もすっきりしたところで、教えてもらったホステルを探さなきゃいけない。まだ時刻は16時くらいだけど、とりあえず荷物を置いてから散策したいし。結構な量の着替えを詰め込んだリュックは、観光を楽しむには邪魔でしょうがない。

 

 ホステルのヒントは、その名前だけだ。インターネットもないからグーグルマップで検索もできない。観光案内所みたいなところがあるのかどうかも、わからない。つまり、街の人に聞くしかない。

 

 最終的に10人くらいの人に助けてもらって、何とかhostel in Ramallahにたどり着いた。道に迷ったりわからなくなったりするたびに近くにいる人に声をかけたけど、みんなものすごく丁寧に教えてくれたり、自分がわからなかったらわかる人を呼んできてくれたり、とにかく全力で僕を助けようとしてくれたのが本当にありがたかった。

 

 

 hostel in Ramallahは、外から見れば廃墟かと疑う風貌だけど、中は割と清潔で快適で、dorm room は一人一泊50シェケル(1500円)。これまでに訪れた宿泊者たちが、ホステル中の内壁に落書きを残していっていた。そのほとんどが、様々な国の言語で平和を願うメッセージ。日本人のも見つけた。なんか見覚えがあると思ったら、以前にネットで見た世界一周旅ブログを書いてる人たちのやつだ。ホステルの名前を聞いたときは気付かなかったな。

 

 

 チェックインして荷物を置き、ちゃんとした昼食を求めてもう一度街へ出る。

 

 さっき見つけた大きな野菜マーケットに行き、何を買うでもなく見慣れない野菜や果物を見て回ってると、なにやらショッピングカートを押してマーケット内を動き回る少年たちにめちゃくちゃ絡まれてしまった。どうやら彼らは、購買客の買い物の手伝いをすることでお金を稼いでいるらしい。すまないけど今は何も買わないんだ、と断り、日本はちっちゃいけどパレスチナよりはデカいぞ、みたいな話をして喜ばれているうちにマーケットを出た。

 

 

 一本奥の通りを歩き、ファラフェルやシュワラマを扱う小さな店の前で立ち止まった。といっても実際のところ、イスラエルでもパレスチナでも、中小規模の飲食店のほとんどがファラフェルとシュワラマが主なメニューになっている。この地で手軽に楽しめる地元グルメは実にレパートリーが少ない。でもまあ結局、安く手軽に小腹を満たすにはファラフェルは最適だし、シュワラマは昼食にも夕食にもちょうどよくてバランスもとれている。なにより両方ちゃんと美味しい。飽きるけども。

 

 ということでファラフェルをテイクアウトしようとしたが、なかなかどうにも伝わらない。結局店内の席に促され、オーダーは通じたのかな?と思っているとピタとホモスが出てきた。違うけどまあいいか、と手を付けるとこれが大正解で、今まで食べたホモスの中でダントツで美味い。オリーブオイルも風味が深く、本当ならめちゃくちゃ重いホモスとピタ3枚をサラッと食べられてしまった。

 

 そして、店主と店員たちのホスピタリティがすごい。他にも客はいるのに僕のオーダーを頑張って聞き取ろうとしてくれるし、伝わらなくて僕が申し訳なさそうな顔をするたびに笑顔でwelcome!と言ってくれる。歓迎されていると全身で感じて、僕もできる限りの言葉とジェスチャーで料理の感想を伝えた。10シェケル(300円)。

 

 

  町の情報が何もないので、一度ホステルに戻って管理人に観光情報を聞くことにした。ホステルの正面ゲート横のインターフォンでフロントとやり取りして鍵が開くのだが、そこで少しごちゃつく。フロントで管理人と話すと、どうやら合言葉を僕に伝えるのを忘れていたらしい。

 

 「インターフォンで パスワードは? って聞かれたら、Wall must fall と答えてください」 僕は一瞬息を呑み、そのまま3秒固まった後、「Wall must fall …」と小さな声で繰り返した。「 I like it 」と付け足すと、管理人はニヤッと少し笑った。

 

 教えてもらったアラファトミュージアムに向かって一本道を歩きながら、僕はさっきのパスワードを口の中で何度も繰り返していた。Wall must fall, Wall must fall ….…繰り返した分だけ重みが増してくる。こんなにも切実で、力強く、悲哀と覚悟と意思のこもったパスワードを僕は聞いたことがない。本当のところ彼は、どれほどの意味をこのパスワードに込めたのだろうか。言葉そのものが、まるで生きた怪物のように感じられた。実際にこの後僕は、様々な場所でこの言葉に出会うことになる。

 

 

 20分歩いてアラファトミュージアムに着いた。正面に立って思わず、「いやマジか…」と声に出してしまった。遠くに見え始めたときから何となく気づいていたけど、改めて全体が見えると、これはハンパじゃない。綺麗に整備された青芝の地の上に、教会かと思うほどの立派なモニュメントと静謐なプール。輝くような白亜の巨大な建造物は、ミュージアムの本館とモスクだ。そして、同じく美しい白亜の、軍事パレードができるんじゃないかと思うほど広い通路がそれらを繋ぐ。この雑然としたラマッラー繁華街のすぐ隣に、こんなヨーロッパの宮殿のようなものがあるのか。

 

 警備兼案内役のパレスチナ兵に少し話を聞き、中に入る。ちなみにパレスチナ兵(実際はPLOの兵士)の軍服は国旗色の赤と緑が基調で、めちゃくちゃカッコイイ。ベレー帽なのも好み。

 

 本館内部の設備や展示方法も、大きなタッチパネルのスクリーンなど最新鋭で、驚いてしまった。これでなんと、初回入場のみ5シェケル(150円)で、2回目以降無料という料金体系。恐らくヤセル・アラファト基金から、とんでもない資金が投入されているのだろう。さすが、アラファトの名がつくミュージアムだ、と思った。

 

 受付のお姉さんから説明を受け、展示のメインコーナーに入る。ここには、地上階から3階まで続く長い長い廊下に、第一次世界大戦前から現在までのこの地の歴史が、膨大な数のパネルとディスクリプションによって再現されている。そしてところどころには、このミュージアムのコレクションである当時の物品や、パレスチナ出身の文筆家の詩も展示され、その時々の空気感を体感させる一助となっている。

 

 その中に一つだけ、絵があった。一枚のキャンバスを4つに区切って、真っ黒な墨で適当に塗りつぶしたような絵が4枚ならんでいる。最初意味が分からなかったが、そこに描かれていたものに気づくと、僕はその場から動けなくなった。1分ほど経って、ようやく大きく息を吐き、いつの間にか頬についていた涙の跡をぬぐって、次の展示に歩を進めた。次の日の朝もう一度来ることを、たぶんこの時決めたんだと思う。

 

 アラファトミュージアムにはこのコーナーのほかに、パレスチナをテーマにした国内外の芸術家の作品を揃えたギャラリーや、ヤセル・アラファトが生前生活していた部屋や会議室などのレプリカがある。18時で閉館だったので一通りサラッと見て、外に出た。夕焼けの中だとさらに綺麗だこの施設…。

 

 

 ホステルに戻る途中、屋台でカップコーンを買った。大鍋でホクホクに炒めたトウモロコシに一欠けらのバターを投入し、溶けたところにお好みでマヨネーズやらスパイスやらを混ぜて、紙コップに山と盛ってくれる。これで5シェケル(150円)だからお得。そしてもちろんめちゃくちゃ美味しい。屋台のお兄さんは、中国政府のパワフルなところが好きなんだそうだ。

 

 

 ホステルに戻ると、宿泊客の一人と管理人が何やら話し込んでいた。聞いていると、今日宿泊するはずだったヨーロッパからの旅行客が、地中海を渡る船上で殺されたという情報が入ったらしい。しかも彼は奇妙なことに、パスポートのコピー画像をなぜか事前にホステルに送っていたという。いや怖い怖い。ホラーの苦手な僕はさっさと退散した。

 

 

 夕食をとろうとまた街をぶらついていると、昼にマーケットで絡んだ少年の一人と偶然遭遇。金をくれとせがまれて困っていたが、不意に思いついて、「案内料をやるから美味しいレストランを教えてよ」と言ってみた。ギリギリのアラビア語ジェスチャーで。すると彼は少し考えて、ついてこい、と歩き出し、ちょっと奥まったところのレストランまで連れて行ってくれた。価格交渉の末押し負けて15シェケル(450円)渡すと、「I love you」の言葉と投げキッスを残して去っていった。

 

 このレストランは比較的品ぞろえが豊富なようだったけど、チキンのシュワラマがオススメらしく、12シェケル(360円)とお手頃なのでそれに決めた。確かに美味しい。それとこの店は、アメリカ出身という太っちょの店員さんがお茶目で面白かった。「ウェルカム!ご注文は?何でもあるよ、これはファラフェル、これはホモス、これはシュワラマ、ぼくはダニエル」「ん~ダニエル!」「うふふ ♪」

 

 

 ホステルに戻ってシャワーを浴びる。好みとかじゃないレベルで水圧が弱い。詳しくは後述するが、トイレットペーパーをトイレに流せないことなんかも含め、これもパレスチナが置かれている抑圧された現状の一面だ。全身を流すのにとにかく苦労した。

 

 その後は、フリーのコーヒーを片手にルーフトップでゆったり。ホステルのルーフトップってなんであんなに最高なんだろうね。管理人や他の宿泊客とヘラヘラおしゃべりしながら、明日はヘブロンに向かおう、と決めた。切ってもらった前髪をスマホのインカメで見ていたら鬼のように盛れた自撮りが撮れてしまって、一人で爆笑した。

 

 

 バスルームに貼ってあった張り紙のユーモアというか風刺のセンスがキレッキレだったので、いくつか載せて、1日目おしまい。

 

 

 

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西岸地区、6日間  まえがき

 パレスチナ問題と総称される、地中海東岸の小さな地域にくすぶる諸問題を語るとき、すべての根幹をなす領土を巡る議論の場において絶対に外せない中心的概念が、シオニズムである。

 

 シオニズムは元々、イエス再臨の前兆として離散ユダヤ人が再び集合し、エルサレムの地に国家を建設する必要があるとする、キリスト教再臨派の一部が強固に主張してきた教理であった。厳密に聖書に忠実な彼らの議論の中では、「エレツ・イスラエルイスラエルの土地)」は時にナイルからチグリス・ユーフラテスまで広大な範囲に及ぶ。この最初期のシオニズムは、クリスチャン・シオニズムとして現在に続いている。

 

 このクリスチャン・シオニズムの土壌と後押しがあったうえで、1896年、ドレフュス事件に衝撃を受けたテオドール・ヘルツルが『ユダヤ国家』を出版し、ユダヤシオニズムに初めて具体的な形を与える。彼が「シオニズムの父」と呼ばれる所以である。

 

 はじめのうちはアラブ人と平和的に共存していたユダヤ人であったが、第一次世界大戦後、シオニズムの文脈における「エレツ・イスラエル」は英国委任統治パレスチナという地理的概念を得る。バルフォア宣言によって領土占有的性格を強めるシオニズムとアラブの対立は国際問題に発展し、1947年、パレスチナ分割決議が国連で採択される。

 

 人口比と領土面積比の非対応だけでなく、そもそも後から移住してきたユダヤ人がパレスチナの土地の一定面積を占有することに反対するアラブ側は、この決議案を拒絶する。これにより、第一次中東戦争が勃発。イスラエルが勝利し、国連パレスチナ分割案よりもさらに広範囲の土地を占領する。同時に70万~80万人のパレスチナ難民が発生。この時アラブ側の占領地として残ったヨルダン川西岸地区ガザ地区を縁取る停戦ラインがグリーンラインとして、パレスチナに主権が移った後の正式な領土線とされている。

 

 現在、ヨルダン川西岸地区はその統治形態によってエリアA,B,Cに分割され、実質的にパレスチナが統治できるエリアA,Bは合わせて全体の40%に留まる。またイスラエルは西岸地区内での入植地建設を精力的に推進し、武装兵によってパレスチナ人の出入りが禁止される土地が今なお増え続けている。さらにイスラエル政府が「セーフティフェンス」と称して西岸地区を取り囲むように建設した分離壁は、グリーンラインから数~十数kmパレスチナ側に食い込んだ位置にそびえ、パレスチナの地理的統合を妨げる要因となっている。

 

 上記に加え東エルサレムも含めたイスラエルのすべての占領行為を国際法違反だとして国連が批判しているが、現在のところイスラエルはそれを無視している。最近では、さらに多くの西岸地区の土地やシリアのゴラン高原を正式にイスラエルの領土に組み入れようとする動きも、イスラエル政権の中に見られている。

 

 

 以上の経緯により、現在、どの範囲をイスラエルと呼び、どの地域をパレスチナと呼ぶかということは、それ自体が政治的意味を帯びざるを得ない。

 

 

 

 

 パレスチナヨルダン川西岸地区に行ってきた。ホテルも取らず、ノープランで。大部分が外務省の出している危険レベル2に該当するので、関係各所には内緒で。6日かけて、西岸地区内の主要5都市すべてを、見て回ってきた。

 

 内緒だから、留学用のブログには書けないのだけど、ものすごい量になった旅のメモをやっぱり文章の形に残したくなったので、ずっと放置していたこのブログを利用させてもらうことにした。読んでくれた人も、どうか内密に。

 

 

 最初に断っておくと、6日間で写真はほとんど撮っていない。もともとモノを写真に撮るという行為がどうしても好きになれなくて、苦痛で苦痛で仕方がないから。そのわりには記憶力が弱くて、記録に残さないとすぐに全部忘れてしまうくせに。これは僕に残された、大人になるために乗り越えなきゃいけない壁のひとつかもしれない。

 

 でもやっぱり、留学用ブログにあげるために頑張って色々写真に撮ってた最近はすごくストレスでしんどかったから、スマホもカメラも構えずに自分の五感だけで体験を味わい尽くせた6日間は本当に、本当に気楽で、めちゃくちゃ楽しかった。だから写真は、本当に限られたものしかありません。

 

 

 それと、旅行記旅行記とも言えないふにゃふにゃの駄文乱筆になってしまうのも、お許しください。元々それ以上にするつもりのなかった記録用のメモにちょっと助詞を足して、文章にするだけだから。それに、留学用ブログほど人に読ませるつもりの文章でもないから。それに、ちょっと時間が無くて推敲なしでバーーっと書いてるから。言い訳ばっかり。

 

 それでも、僕が足を運んで感じた雰囲気が、少しでも伝われば幸いです。

 

 

 あ、パレスチナのまとまった解説とか問題の体系的な説明とかは、後々留学用ブログでしようと思ってるので、今回はあんまり解説ナシ。僕の直接的な体験だけで。